その物語(1)
王芝香は、珍しく不安を覚えていた。
一体、これはどう言う事なのだ。
整った眉が神経質そうに寄せられる。
芝香は、滅多に感情の起伏を外の人間に見せない。それは、女の身で出版の世界に飛び込んだ二十代の頃から芝香の信条であった。女は非力と言われるよりも、女は感情的な生き物だと言われる事を非常に嫌った。いつでも、冷静かつ理論的に動くことを自分に課した。男嫌いと噂される程に恋愛には脇目も振らず、仕事に人生を捧げて来た。
三十台半ば、しかも女でありながら二流雑誌とは言えど編集長と言う地位を得られたのは、才覚以上に並々ならぬ努力の結果であると、芝香は自負している。
そして、そんな彼女が当然のようにいただいた冠が「鉄の女」である。
男たちが一種畏怖と同時に煙たさも込めて、女たちは侮蔑を込めてそう呼んでいる事を芝香自身もわかっている。
そんな事は少しも気にならぬ。
その芝香が、目の前の原稿の処理に途方に暮れている。
西向きの窓から、傾き始めた日が差し込んで来る。
じっとりと首筋が汗ばんだ。
顔を上げ編集室を見渡すと、次の号の原稿の校正に取り掛かっている編集部員が二人ほど居るだけである。記者には、日の高いうちは戻って来るなと日頃言い聞かせている。
この原稿を置いて行った劉旦も、当然、社内にはその姿がない。
芝香は溜息を吐いた。
驚いたように編集部員が顔を上げる。芝香がちらりと視線をくれると、若い編集部員は慌てて目を伏せた。
(私だって、溜息くらい吐く事もあるわよ)
芝香は苦笑した。
人より有能だと言う自信はあるが、こう言う事は苦手だ。予想のつかぬ突発的なトラブルなどへの対処能力も男に引けを取らぬと思う。だが。
芝香はデスクに肘をつき、面倒臭そうにもう一度原稿に目を通し始める。
「大世界と言うところはつくづく面白い場所である。
そんな事は読者諸君もとうにご存じだろうが、近頃、こう言う噂を聞く。
その娘には四肢がないと言う。出身は美人の産地である蘇州だけあって、非常な美女だそうだ。西施もかくあるかと思うばかりの美貌は、四肢の揃った体があればそれこそ国を傾けかねぬ程だと見た者は言う。男の心を蕩けさせるその美女の微笑を一目見たいと、大世界の見世物小屋は非常に繁盛しているらしい。」
芝香は、朱を入れたくなる衝動を抑える。美人美人とうるさい。
「普段はこの娘、大きな壺に入れられている。壺と言っても、美しい娘に似合いの清朝時代の艶やかな文様を施した立派なものである。その壺から頭だけを出し、にっこり笑う。勿論、その壺のうちにはちゃんとした腕も脚も隠されているのだろうと疑われる読者も少なくなかろう。騙されているのか、それとも真実かは確かめてみるものが居ない限り、謎である。そう言う胡散臭いところがまた見世物小屋の面白さなのだ。
また、ここが世知辛い上海らしいところであるが、木戸銭を奮発する者には一般客が帰った後に特別にこの娘に侍り語らう事を許される。蘇州美人は、実はこの語らいにこそその魔性のような魅力があるのだと言う者がいる。仮に彼を李君としておこう。これは彼に取材した時の話である。李君は語った。これは、まことしやかに市井の者たちの間に流れる噂である――」




