大世界(ダスカ)-3-
――幻惑の街なのだ。
月の出ない夜の、漆黒の空さえ、眩いネオンにその闇を追いやられてしまう。まるでならず者たちが黒い帷を追い払うが如くに、この街に静寂は訪れない。
眠らない街と呼ばれる。
不夜城、上海。
東洋に華やかに開いた徒花。夜にはますますその毒気に湿らせた舌先で、人間の欲望に擦り寄り、舐めさすり、柔らかい肉に牙を立てる。人は痛みを痛みと自覚するまでの間、それを心地好く思い、愛とすら勘違いするのだ。
気付けば、体内の血を一滴残らず啜られている。
だから、この街は死体で溢れている。
ほら、気をつけて。
タクシーを降りると、陽子が爪を赤く塗った指先で私の足元を差した。
ネオンの明るさに気を取られていた私は、ボロ布を体に巻き付け冷たくなって横たわる人間に気付かなかった。
いや、もう彼は人間ではない。いつから、彼はそのように人間である事を捨て、この街の人間に踏みつけられるだけの存在になり果てたのだろう。
憐みなど感じない。
私はこう言う時に、自分の心が麻痺してしまった事に気づく。
彼はただ飲み込まれただけだ。この街に。
そして、どのみち私も彼と同類なのだ。飲み込まれようとしているのは、十分わかっている。だが。
陽子が、私の手を引いて、にっこりと微笑む。
何て美しい、毒婦。
銀幕でさえこれ程、端正で色香を漂わす女を見たことがない。ネオンの灯りが、東洋人離れした長身で、艶かしい曲線を描く肢体を浮かび上がらせる。
あの中国服の柄は、初めて見るわ。また誰かにプレゼントされたのかしら。
薄い絹の中国服は、彼女の体に吸い付くようで、私は明らかに嫌悪を感じていた。
嫉妬ではない。嫌悪だ。
愛してもいない夫だったが、いや、それゆえに、あの男とこの女が一度ならず抱き合ったことを知ってからは、この感情はどうしようもないものになっていた。
それでも、私は陽子から離れられない。
背徳と嘘と淫蕩と、あらゆる毒が陽子にはよく似合う。その淫蕩さは男たちを蕩かすが、では私は彼女の何にこれ程虜となっているのだろう。背徳か。嘘か。
頭が痛い。
眩暈がする。
自分の思考にすら嫌悪感を抱く。
「気分が悪いの?」
陽子が顔を近付け、尋ねる。
妖艶で甘い香りがした。
「大丈夫よ」
私は彼女を押しのけ、顔を上げる。
そこに、ひときわ眩しい、白亜のビルがあった。
夜空に向けて両の翼を大きく広げたような、ヨーロッパ風でもあり、同時にペルシャやインドのような妖しい魅力を備えた建物。
大世界。
「今日はいい部屋を予約してあるわ。きっと、泉のお気に召すと思うのよ」
「良いワインを」
「用意していると思うわ。とびきり綺麗なボーイが入ったらしいわよ」
「それは楽しみね」
「嘘嘘。泉は男には興味がないもの」
「そうね。ボーイよりも阿片がいいわ」
思わせぶりな会話を私は好まない。陽子が少し不意をつかれたような顔をしたのが、小気味良かった。誰に聞かれても構わない。いっそ、誰かが聞きつけて、この女に毒された良家の若夫人を奪い返しに来て欲しい。
いや、そんな退屈はやはり御免だ。
いっそのこと、この女と刺し違えて見せようか。
いやいや、そんな事をしたら、世間はあの男を巡って女二人が争ったとでも勘違いするに違いない。誰よりも、自惚れの強いあの男が。
「歓迎光臨、仁礼夫人」
大世界のドアボーイがにこやかに迎えてくれる。
白い門をくぐれば、そこには、上海の光の渦に包まれた闇が待っている。ジャズの音が何処からか聞こえて来る。紳士淑女が集う倶楽部の奥の部屋では、きっと賭博が開かれ、阿片や女たちが売り買いされている事だろう。
上海の街中にぽっかりと地獄への入り口が開いている。それが、大世界だ。
私は地獄へ堕ちるために、また、ここに帰って来たのだ。




