表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
上海奇譚  作者: 田中しう
2/8

大世界(ダスカ)-2-

 先程まで儚げに揺れていた涼しげな目が、ギラギラと輝いている。

 怒りなのか。それとも恨みなのか。

 恐ろしい感情がそこにあった。その感情が自分に向いていることに、男は戸惑う。


「お前は、私を置いて逃げた。一生かかっても手に出来ないような金をお父様から引き出して、お前は私を捨てた――」

 私がこんな体になったのも、元はと言えばお前のせい。

 お前を待って待って待ち続けて、夜が後少しで明けると言う時間になって、お父様が私の部屋にやって来た。お前が去ったことを告げた。そして、お前より金を選ぶような男は、早晩忘れるに越した事はないとお父様は言った。

 お前の夫となる男は、儂が見つけてやると。

 私は泣きもしなかった。お父様はそれを見て、諦めがついたのだろうと思い、黙って部屋を出て行った。

 他の男に嫁げと? そんな事はあり得なかった。私はその時すでにお前の子を宿していた。


 何を驚いている? 週に三日は私を抱いて、離さなかっただろう。子供が出来るのは当然のこと。知らなかったとは言わせない。いいや、知っていた。私はお前に囁いた。子供が出来た。もう待てない。だから、次の新月の夜、迎えに来てくれと。お前は肯いたのに。きっと迎えに来ると何度も誓って言ったのに。なのに、逃げた。私と我が子を置いて。夜が明ける前に、私は邸に火を放った。この世の全てがおぞましかった。自分も、お父様も、お前の子も焼いて焼いて焼き尽くしてしまいたかった。

 そして――


「私がこんな体になったの」


「あなたのせいよ」


 女はいつの間にか、住処の壺を抜け出していた。四肢のない体を引きずるようにして男に近づいて来る。この上なく美しい、花びらのような唇は微笑をたたえていた。だが、その目は恐ろしいばかりにつり上がり、憎悪の焔を燃え上がらせていた。

 男は必死でかぶりを振る。

「俺は知らない。俺のせいじゃない。知らない。知らない。許してくれ!」


「許さない――」


 女の顔がすぐそばにあった。

「お前のせいだ」

 女は相変わらず微笑んでいたが、そこにもう花弁のような唇は無かった。女の血を紅の代わりにしたような深紅の唇は、耳まで裂けようかと大きく広がっていた。


 男は悲鳴を上げ、転がるように小部屋から飛び出した。

 背後に女の高笑いが聞こえた気がした。男は魂を抜かれたように、ふらふらと大世界の門をくぐり出て、上海の夜に吸い込まれて行った。




「その男はどうなったんだよ?」

 酒を酌み交わしながらその話を聞いていた男たちが、微妙な表情でその答を待つ。

 派手な化粧をした酌女は、にたりと笑う。

「気が狂っちまったんだと。そのうちに自分から首を吊って死んだそうだよ」

 そして続ける。

「大世界には今もその女が居る小部屋があって、次々に男が通ってるんだと」

「誰が信じるかよ、そんな与太話」

 男の一人が言うと、他の男たちも笑った。

 旧市街の城内。十人も入れば一杯になる、下町の定食屋に毛が生えたような安酒場である。

「信じないならそれでいいけどさ。どのみち、あんたたちが法外な木戸銭払える甲斐性があるとも思えないし、関係のない話さね」

「言ったな、この女」

「口惜しいなら新しい酒を注文しておくれ」

 女はそう言って、大口を開けて笑った。


 その賑やかなテーブルの横で、暗い表情で盃を傾けながら、この話に聞き耳を立てる男が居た。客の大半が労働者風の風貌だったが、この男だけ開襟シャツに黒ズボンと言う洋装だ。と言えど、大分くたびれた様子で、場違いと言う様子でもない。

 客たちの話題が他に移ったのを機に、男は立ちあがる。足がもつれ、倒れそうになる。

「気をつけとくれよ、お客さん。大丈夫かい?」

 酌女が慌ててその男の体を支えようとしたが、男は女の手を振り払い、懐から飲み代を出すとテーブルの上に放った。顔が紙のように白かった。短気を起こしそうになった酌女も、さすがに気味悪そうに眉をしかめ、それ以上は口を出せなかった。客たちが放っておけ、と女に目配せする。

 開襟シャツの男はふらふらと体を揺らしながら店を出て、それから、壁をつたうように店の裏側の小路に廻り、そこで胃の中のものを吐いた。

 悪寒がした。

「お前のせいだ」

 女の声が耳元で聞こえた気がした。男は耳をふさぐ。

 

 英菻えいりん……


 蘇州の、花のように愛らしい少女の微笑を、男は思い浮かべていた。

 英菻なのか?

 そんな筈はない。

 あの夜、いや、夜明けか。蘇州の豪邸が焼け落ちたあの時、少女は死んだ筈だ。それに、こんな話なら誰だって思いつく。あの少女である筈がない。

 男は胃に残っていたものをもう一度吐き出すと、重い体を引き摺るように立ち上がった。

 むっとする程の、湿気を帯びた熱気が体にまとわりつく。だが、背中には冷たいものが張りついているような心地がした。男は頭を振って、今耳にした噂話を忘れようとした。

 ボウ。

 狭い路地と低い軒が続く迷路のような城内の街にも、黄甫江を往き交う船の汽笛が響いた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ