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上海奇譚  作者: 田中しう
1/8

大世界(ダスカ)-1-

■プロローグ


 まことしやかに市井の者たちの口から口に伝えられた、噂である。

 フランス租界にある瀟洒な遊戯施設、大世界ダスカ。そのとある小部屋に、一人の女が捕えられている。

 女には手足が無かった。四肢を奪われた上に、首から下は酷い火傷を負っているのだと言う。

 人には見られたくないの――

 だから、私はこうやって首から下を大きな壺に埋めて、貴方とお会いするのよ。

 女はそう言って、にっこりと笑う。

 それはそれは美しい微笑で、男の心を蕩けさせるのだ。

 女に心奪われた男はその夜から、寝ても覚めても女を想い、夜毎に大世界に足を運ぶようになる。女の居る部屋に入るにはべらぼうに高い木戸賃を払わなければならないが、そんな事はどうでも良かった。

陶器の壺を両手に抱き、女の滑らかな白い頬に頬ずりながら、常なる男女のように肌と肌を合わせ抱き合えないことを嘆くのだ。

 否。

 その女に魅入られた男は次第に、女のしなやかな四肢に絡みつかれる快楽をさえ忘れ去り、やがて、女の微笑みを眺めてさえいれば一晩を幸福に過ごせるようになると言う。

 女は、男を抱けぬ代わりに一晩中夢物語を語って聞かせる。


 大抵は、悲しい彼女の生い立ちであった。

 蘇州で生まれたの。街では、誰もが知る名家だったわ。花のように、蝶のように、大切に育てられた。世間の悪意なんてまるで知らなかった。そうして、十七歳になったの。その歳に恋をした。身も心も燃え尽きるような、髪や指先までとろけるような恋だったわ。貴方、そんな恋をした事があって?

 最初、男はその話を聞いて激しい嫉妬に身をよじった。だが、女はそんな男の想いを弄ぶように、夢心地で恋の思い出を語る。いや、それはまるで今まさに恋をしている少女の語りであった。だから、男はそのうちに、自身が彼女の恋する男と錯覚するようになるのだ。

 少女の細い指に初めて触れた甘い感覚も、花弁のような唇に接吻けた狂おしい想いも、やがて完全に自分のものとなる。汚れのない白い肌に溺れ、自分の腕の中で少女から女に変わって行く彼女を抱く、このまま死んでも構わぬと囁き合う程の悦楽。

 愛していたのよ。あなたの為なら、何もかも捨てていいと言うほど。

 でも。

 あなたは、そうでは無かった。

 あの日、一緒に逃げようと約束していたのに。

 女の長い睫毛が濡れる。はらはらと白い頬に涙が零れる。

 泣かないでおくれ、と男は動揺する。そんなに悲しまないで、と。

 悲しい?

 女は顔を上げる。

「悲しいですって?」

 ――女の表情は一変していた。

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