桜八分咲き
のぞみ製薬株式会社神奈川営業所で一つの噂が立った。
ネタの掴みのような名前のMR、春野桜子が恋をしている……そして、その相手がずっとアプローチをかけていた真田とは別の人物であると。最初は皆一笑に付していたが、帰宅時間が早くなり、真田をぱったりデートに誘わなくなったことから、現在、その噂はより真実味を帯びて流れていた。
「済みませんっ、お先に失礼します!」
今日は二ヶ月に一度の神奈川と千葉の合同勉強会で、大人数だった分、質疑応答が長引いてしまい、すべてのスケジュールが終了した頃には、就業時間を大幅に過ぎていた。誰よりも先に会議室を出た桜子は、一分一秒無駄にできないというように素早く帰り支度を終え、事務所を飛び出していった。
「おい、サクラっ! お前、今日いろいろ大変だったんだから、気ぃ付けて帰れよー……って、聞いてねぇじゃん!」
その背に向けて山田が投げかけるが、一目散に駆けていく彼女の耳にはまったく届いていないようだった。
「……面白くなーい」
「茜さん?」
背後でボソリと呟いた彼女に、山田は振り返る。
「あぁー、失敗した。最後だったんだから、こっちのお店にすればよかったなー」
見れば、茜の手元には数冊のグルメ雑誌があった。真田が桜子に誘われたとき、彼女はいつも便乗していた。実はこっそり遠距離恋愛中の真田にも頼まれていたし、整形外科クリニック院長令嬢という、名前に相応しいセレブ、桜子の奢りで散々飲み食いするのは、茜の人並み外れた胃袋にとっても都合の良い話だったのだ……次はここ、その次は、と店を指定していたのは彼女に他ならない。
「……あはは」
山田は乾いた笑い声を立てる。次に狙われるのが自分の財布だということは、わかり切っていた。
「でも、一体誰なのかしら? あの真田君一直線だった桜子ちゃんに、急ブレーキかけさせたのって。恋に恋してたけど、筋金入りの鈍感娘に本物だって気付かせるなんて、並大抵の男じゃないわ」
「ホントにねぇ……でも、真田追いかけてたときより楽しそうだよね」
「……うん、よかったね」
「茜さん?」
彼女の優しい笑みに、てっきりたかる相手がいなくなったことの八つ当たりがくると身構えていた山田は、不思議そうに呼びかける。
「最初っから真田君と桜子ちゃんとじゃ、絶対合わないって思ってたのよね。あの二人、分類一緒でしょ? お互い気ぃ遣いーでさ。心の読み合いで、結局どっちも気が休まらないわよ。二人には、とことん世話を焼けるタイプが合ってるの……何言っても恋に恋してる状態じゃ、聞く耳持たないだろうから、私もあえて言わなかったんだけどねぇ。それに、ぼやーっとしてた顔があんなに活き活き楽しそうにしてたら、突っ込む気も失せるっての」
「……茜さんって、マジ男前ぇー」
常々、胃袋で物事を判断していそうな茜が垣間見せた予想外な観察眼に、山田は思わず呟く。
「あんたねぇ、そこはいい女って言いなさいよっ!」
「わっ、痛い! 暴力反対っ!」
「なに、本気で逃げてるのよっ……ホントにはっ倒すわよ!」
この二人の関係前進は、まだまだ先のようだった。
一方その頃、件のクラブ・ミモザでは……。
「お前、桜子に惚れられたんだってな」
そこそこ無理矢理に一倉から呼び出されていた増田は、彼の開口一番の台詞に、馴染みのホステス、明菜が作った水割りを盛大に噴き出していた。
「汚いぞ、伊織。明菜にかかっただろうが」
「いえ、私は大丈夫です。増田さん、大丈夫ですか?」
「……っ、……申し訳ない」
さっとおしぼりを渡してくれる彼女に謝罪しながら、増田はそれで口元を押さえて一倉を睨みつける。
「いきなり何てことを言い出すんです、あんたはっ……!」
「おいおい、伊織ぃ……同期といえども俺ぁ、お前よか年上だぜ? あんたはねぇだろ。それに勘違いするな、最初に恋愛相談があるってメール送ってきたのはあいつだからな。ただ、生意気にも相手の名前伏せやがるし、どうやらなすび坊ちゃんじゃなさそうだ……で、カマかけたらあっさり引っ掛かりやがった」
あのお子様がぁあぁああぁっ……! この悪魔より性質の悪い男に相談するなぞ、馬鹿か! 学習できないのかっ! それか、俺への嫌がらせかぁあぁぁーーーーーっ!
心が上げる叫び声を、増田はきつく唇を噛み締めて呑み込む。一倉を相手に激昂するなど、みずからネタを提供するようなもの……とんでもない自殺行為であることは、今までの経験から身に染みている。
「……あの、私、新しいおしぼり取ってきますね」
とことん腹黒い笑みを浮かべる一倉と、鬼のような形相でそれを睨みつける増田に、明菜は困惑しつつも気を利かせて席を立った。増田はそんな彼女の気遣いを有難いと思いながらも、固唾を呑んで一倉からの次の言葉を待つ。
「そう構えんな、面白ぇけど言い触らしたりしねぇよ。お前の方はどうなんだ? あいつのことは嫌いか?」
一倉の問いかけに、増田は考える。
ふた月ほど前、ミニスカポリスの格好で、気付け薬に酒まで飲んで自分に告白してきた、ネタの掴みのような名前の部下、春野桜子……その後、彼女は訪問先の病院、特約店前で同行の振りをして待ち伏せしていたり、社宅の部屋へ押しかけて来たり、と一方通行な交流が続いている。確信犯的に置いていったハイヒールとイヤリングを口実に部屋に上がり込んでからというもの、増田の生活空間を綺麗に整えるだけで帰っていくという行動を繰り返していた。高校時代の部活動で培ったものか、もともと備わっていたものか、彼女の献身は、初回の暴走を差し引いても素晴らしかった。
何がそんなに楽しいのか、嬉々として増田の部屋の家事全般をこなす桜子の姿に、最初は神経を逆撫でされていたが、今ではそこそこ便利な奴だと思うまでになっている。今時の若者には珍しく丁寧な仕事の数々には、一人暮らしが長く、炊事洗濯もそつなくこなす増田さえ舌を巻くもので……講演会続きで現れないここ数日間の方が、正直なところ違和感を覚える。刷り込みとは、かくも恐ろしいものかと実感した。
「別に、申し分ないですね。気が利きますし、分を弁えてますし……なかなか化粧映えのする綺麗な肌もしてますし、伴侶としてはまずまずと言ったところですか」
彼がさらりと舌に乗せた言葉には、さすがに一倉も意外だったらしく、わずかに目を見開いている。
「業界大手の整形外科クリニック院長である父親も好ましいですし、見合い話なら即決したでしょう……ただ、一倉さんも知ってるでしょう。俺が一番嫌いなのは、女を見上げることだって。それだけはどうしても我慢なりません」
いくら現代の大和撫子でも、毎日、妻を見上げて過ごすなんて御免被ります……と、駄目押しのようにつけ加えたが、一倉はさきほどの表情のまま、まだ自分を凝視していた。
「要は、気に入らないのはあいつの身長だけか?」
「そうなりますが、男のプライドは一番の障害でしょう?」
どうせ、一倉相手に本音を隠し遂せるとは思えない。それに、この年上の同期は何だかんだ言いながら、気に入った人間の不利益になるような話を吹聴して回るような真似はしない。この話も伝わるとしたら渦中の桜子ぐらいだろう。茶化すように切り出したが、一倉の色恋沙汰、別れる別れないの交渉術は恐ろしいほどに卓越している。もし自分が桜子の気持ちに応えるつもりがないとわかれば、彼女を気に入っている彼のこと、後腐れなく諦めるように説得を試みる可能性は高い。
だとしたら、早いところ決着を付けた方が得策だ。そう考えた増田は、はっきりと自分の気持ちを舌に乗せた。
「プライドねぇ……」
一倉は増田の言葉に、案の定考えを巡らせ始めた……が。
「よしっ、伊織! お前、一度くらい桜子の手ぇ握ってやれ」
「……っ、何ですか、それは!」
そして、投げかけられた言葉に、増田はまたぞろ飲みかけていた水割りを噴き出しそうになる。まったくもって、彼の言葉の意図がわからない。
「お前は頼んじゃいないっつーだろうが、それでも散々尽くしてくれたんだろ? 握手でも何でもいいから、最後に手ぐらい握ってやれ。その後のことは気にするな、桜子は俺が懇切丁寧に食ってやるから」
「はぁっ?」
そして、最後の言葉には、さらに度肝を抜かされる。
「桜子の箸使い、今度よく見てみろ。上品だが、妙にセクシーでそそるぞ。飯の食い方には、夜の生活が表れるって話だ……あいつ、化粧だけじゃなく、そっちも仕込めば絶対に化けるぞ。俺が抱けば、一発で桜咲くぜ。お前のことなんざ綺麗さっぱり忘れるくらい、散々鳴かして骨抜きにしてやるよ。俺ぁ、お前と違ってたっぱも歳の差も気にならねぇし、望めばカミさんと別れてやるくらいにゃ、桜子自身も気に入ってるしな。お前も言った通り、あいつの親父さんのコネクションは、この俺にとっても実に魅力的よ」
ふたたび腹黒い笑みを口元に刻んで耳元で囁かれた言葉は、決して大きいものではなかったが……まるで悪酔いした朝のように、クラクラした。
* * *
その後、増田が一倉の聞きたくもない桜子の肉体改造についての詳細な講義から解放され、社宅に帰り着いたときには、すでに日付が変わっていた。今日は休みでもないのに、と内心毒吐きながら玄関の扉に鍵を差し込むが……。
「……、……あいつか?」
差し込んだ鍵を回すことなく開いた扉と中から漏れてきた光に、増田はさらにどっと疲れたような重い足取りで部屋に踏み入った。
「あ、お疲れ様です」
新妻よろしく自前のエプロンをまとい、台所に立つ桜子は、シンクに溜まっていた食器を洗い終えたところらしく、布巾でそれらを拭いていた。居間のソファーの上にスーツの上着と鞄が置いてあることと今現在の状況から考えて、彼女は増田が帰ってくる少し前にやって来たようだ。
気が付けば勝手に作られていた合い鍵で毎日のようにやって来る桜子に、増田は諦めたように嘆息する。
「そういえば、明日は代休だったな」
「はい、随分堪ってましたから。でも、部屋にいますから何かあったら携帯にかけてください」
「わかった……しかし、いくら明日休むとはいえ、残業した日ぐらいはまっすぐ帰れんのか」
「私が好きで、勝手にやってることですから……お風呂沸いてますよ。私のことは気にせず、入ってきてください」
ここが終わったら、勝手に帰ります……桜子は増田に背を向けたまま告げる。ピンと背筋の伸びた後ろ姿は、可愛いピンク色のエプロンが寸足らずに見える長身だ。不意に増田は眉を顰めたが、それはあと一歩足りない彼女の色気とは関係なかった。
一倉仕込みのアプローチにしては、今日はどうにもぬるい。
「……おい、ちょっとこっち向け」
増田の言葉に、桜子は返事を返さず、肩だけがビクリと震える。
そして、一瞬増田を振り仰ぎかけた顔は、完全に振り返る前に、不自然な角度で止まった。その様子に少々イラついてきた増田は、つかつかと彼女の真後ろまで歩み寄ると、背けた顎に手をかけ、一気に自分の方へ向かせる。
「わっ、あ痛っ……!」
半ば強引な動作だったためにグキッと首の骨が鳴る音がして、桜子は小さく悲鳴を上げた。それでも彼女は、左手の布巾は手放しても、右手に握っていた洗ったばかりの汁椀は落とさないという芸当を見せる。
「お前は馬鹿かっ……」
増田はそれを褒めるどころか、鬼のような目で真正面から睨みつけ、苦虫を噛み潰したような声を吐き出す。
今日の合同説明会では、それぞれの営業所から選ばれた三人の若手MRが自社から出ているジェネリックのプレゼンをすることになっていた。増田は午後からアポイントがあったためにずっと会議室にいたわけではないが、午前の部だった桜子のプレゼンは見てから中座した……が、そのときの彼女の顔は、こんなことにはなっていなかったはずだ。
「あ、あははは。今日、講師で来られてたラ・ルナの黒河内先生、明日ゴルフコンペだそうで……休憩時間にスイングをチェックしてくれって頼まれて見てたんですけど、先生ちょっと張り切り過ぎてたみたいで、すっぽ抜けたクラブが丁度私の顔面に。最近ちょっとなまってて、クリーンヒットしちゃいました。でもでもっ、お陰で来月、プラノバール配合錠、500錠入れてくれることになりましたから」
まくし立てるような早口で弁明する桜子の左目の下には、見事な青痣ができていたのだ。明日になれば、きっと腫れるだろう。
「馬鹿だな、大馬鹿だ……怪我した挙げ句に残業までしたなら、まっすぐ自分の部屋に帰って寝ろ」
「済みません。でも、一瞬でも伊織さんの顔が見たかったんです。ここ数日、全然会えなかったし、実際、寝るより元気出ましたし」
彼女はそうさらに続けるが、よく見れば打撲の跡に隠されるように目の下にはクマができており、心なしか顔色も良くない。一ヶ月前の新薬発売を受けて説明会が相次いでいたところに、今回の合同勉強会でのプレゼン資料作成……極力他人に気遣いをさせないために、そういう匂いを一切させないよう常に心掛ける桜子の憔悴し切った苦笑いに、ここ数日の疲労蓄積を垣間見た気がした。
「……お前なぁ」
増田はほとほと呆れたように呟いた。
こいつは、どこまで俺なんかが好きなんだ。
「……えっ、……増田さん?」
次の瞬間、桜子の顔が驚きに染まる。ついさきほどまで水仕事をしていた彼女の手は、冷え切っていた。湯を使えばいいのに、律儀な彼女は光熱費でも気にしたのだろうか……外から帰ってきたばかりの自分の手も、決して温かいとは言えないが、それでも気が付けば、色の抜けたような白い手を強く握り込んでいた。
「……お前は瞬間湯沸かし器か」
みずからの手の中で一気に熱を上げた掌に、増田は珍しく茶化すように言った。
「……っ、末端冷え性です! そんなことよりっ……好きな人と手を握ってて、体温上がらない人間なんていないですよ!」
それでも、口で想いの丈を熱く訴えながらも、握り返していいものか至極真面目に悩んでいることが伝わる手に、増田はわずかに眉間に皺を寄せた。
「後味が悪い……それだけだ」
別に、一倉の言葉にたきつけられたわけじゃない。彼に奪われそうになって……否、奪われるも何も、自分のものだなんて思ってもいない。とにかく、彼女が惜しくなったわけでは絶対にない。斜め四十五度に傾ぐ視線は、相変わらず不愉快だ。
「はい……?」
険のある顔のまま、十分温まった手を解放した増田の言葉に、桜子は小首を傾げる。彼女の手は、名残惜しげに暫し宙を彷徨っていた。
「春野、悪いことは言わん。これから暫く一倉さんには近寄るな。間違っても、二人っきりで会ったりするなよ。どうしても直接会わなければ済まない用があるなら、私が立ち会ってやる……いいな。絶対だぞ」
不思議そうな桜子を見上げ、早口でそう告げると、増田は答えも聞かずにさっさと浴室に向かって踵を返しかけたが……。
「……お前のことだ、どうせ飯もまだだろ。風呂から出たら何か腹に軽いもん作ってやる、食って帰れ」
思い至ったというように、首だけ振り返った彼は、そう予想外な一言を投げかけ、今度こそ廊下の向こうに姿を消した。
最後に、噂の箸使いを見ておくか……ただ、それだけだ。
「……この後、お説教ってこと?」
最後二番目からの一連の台詞に、みずからの背後にいる悪魔的恋愛ブレーンの存在に気付かれたことを悟った桜子は、汁椀片手に蒼褪めて立ち尽くす。
ただ、そこにはアイスマンの異名を持つ上司の無自覚な嫉妬と独占欲がまとわりついていたことを、直前の彼ら二人のやり取りを知らない彼女は、まだ知るよしもなかった。