雪夜驚変
風雪は刃の如く、人が目を開けられぬほど肌を削ぐ。
嬴明は七人目の粛真兵の胸から紅纓槍を引き抜き、地面に突き立て、その身を預けて佇んだ。
温かい血が雪原に飛び散り、瞬く間に黒赤い氷の殻へと凍り固まる。
背後に残るはたった十二人、十二頭の荷馬。馬の背には最後の源晶火銃、糧食と薬品が縛りつけられていた。
「殿下!追っ手が迫ってきます!」副将の陳衝は顔の雪水を拭い、震える声で叫んだ。
嬴明は振り返った。果てしない雪線の彼方、数百もの皮帽が一斉に動いているのが見える。
――彭胤亭、なかなか私を重く見てくれる。まさか「猛牛」一団を丸ごと派遣し、私を捕らえようとは。心中にそう思った。
彼は槍柄を強く握り締め、穂先の血はすでに凍り、槍全体が赤い氷の錐のようになっていた。
「お前たち、先に行け。」
陳衝は目を見開いた。「殿下!」
「軍需品を敵の手に渡してはならない。急ぎ臨于関へ引き返せ。」嬴明は馬綱を彼に投げ渡す。「これは軍令だ。宗室には白衣従軍の掟がある。爵位・官身を捨て、平民の身として戦場に立つ我が宗室の定めだ。もし軍糧を失ったら、五叔父にどう顔向けすればよい?」
「殿下!」陳衝は焦りを露わにした。
監国摂政・昭親王の嬴燼が、この実兄・粛宗の子である従子を珠玉のように寵愛していることは、朝廷の誰もが知る事実。もし、自らの掌上の珠がこの地で殿後していると知れば、生きて戻った我々の皮を剥ぐに違いない。
「もし私が戻らぬ時は」嬴明は一瞬言葉を切る。「五叔父に伝えてくれ、私が彼に申し訳ないと。行け。」
陳衝は目に涙を浮かべ馬に飛び乗り、鞭を一振り。荷馬隊は馬の嘶きと共に風雪の奥へ消え去った。
嬴明は槍を構え直し、押し寄せる黒い帽の群れを一人で迎え撃つ。
先頭の黒馬に乗る辮髪の大漢。貂猪皮の外套をまとい、左頬に三本の傷痕が走り、腰に湾刀を差している。
「宣雍の若き王よ。拙者は粛真震親王麾下、第三固真・エレゲ。」エレゲは馬を止め、黄ばんだ歯を剥き出して嗤う。「配下の兵は足が速いが、無駄なこと。この方圓五十里はすべて我らの勢力圏。翼があっても逃げ出せぬ。素直に私に従い基下のもとへ参れば、命だけは助けてやるかもしれぬ。」
「貴殿の基下が欲しいのは私の身か、それともこの軍需品か?」
「どちらも欲しい。」
「それは無理だ。」嬴明は微かに笑う。「私はけちな男だ。一方を与えれば、もう一方は残さねばならない。」
「生け捕れ。」エレゲの顔色が険しくなり、手を振った。
十人の白甲兵が馬から降り、扇状に迫り来る。それぞれ角弓を手に、矢尻には狼毒が塗られていた。
嬴明はその場に佇み、微動もせず目を閉じた。
風雪の響き、馬蹄が雪を踏む音、弦が張り詰める音、エレゲの痰の絡む呼吸音…… すべてが耳に流れ込む。
目を開けた瞬間、天地の様相が一変する。
すべての粛真兵の体に淡い赤金の紋様が浮かぶ。血流の軌跡、骨が力を受ける節目、鎧の防備が届かぬ唯一の隙間。
真視。
これは彼が龍を飲み込んでから得た最初の神通。万物の内部構造を見通し、弱点を看破し、相手の行動を予見する力。
紅纓槍が唐突に三丈へと伸び、穂先は毒蛇が舌を出すよう、最前の白甲兵の咽喉を正確に突き通す。槍竿が縮み、横薙ぎに振られ、二人目の白甲兵の膝骨を砕く。嬴明は槍に従い、三歩目には敵陣中央へ踏み込む。紅纓槍は両手の間で車輪のように回転し、血と砕骨が飛び散る。
「矢を放て!」
エレゲの怒鳴り声と共に、二十本の矢が空を裂いて飛来する。
嬴明の瞳が凝る。
右前方に人の半身ほどの氷岩がある――空間座標を捉えた。
次の瞬間、彼の姿は忽然と消え、氷岩と位置を入れ替える。矢はすべて空振り、氷岩に突き刺さった。
空間転換。彼が身に宿す二つ目の神通。
「妖術だ!」一人の粛真兵が驚き叫ぶ。
嬴明は瞬く間にエレゲへと迫り、槍穂を再び伸長させ、その乗馬を真っ貫く。馬は悲鳴を上げて転倒し、エレゲは地面に転がり、無様に湾刀を抜いた。
周囲の者たちは反応する暇もなかった。
「貴様……」
嬴明は言葉を与えず、槍竿を押し下げ、彼の右肩甲骨を砕き割る。
エレゲは激痛に全身を震わせながら、唐突に怪しく笑い出した。「若き王よ…… 後ろを見てみろ。」
嬴明は振り向いた。
雪橋――氷淵を跨ぐ天然の氷の尾根。荷馬隊は先ほどこの上を渡った。今や橋の両端に粛真兵が展開している。
十数人、数十人ではない、黒々と数百人が集結していた。
前後から挟撃され、雪橋の下には果てなき深淵が広がる。
「言ったはずだ、方圓五十里は我らの支配下にある。」エレゲは足を振りほどき、立ち上がる。「基下の命、生きて身を捕らえよ、死体でも構わぬ。従わぬのなら、この橋を爆破する。」
嬴明は笑みを浮かべた。だがその表情を見て、エレゲは背筋に寒気が走った。
「貴殿の基下は告げなかったのか?」嬴明は紅纓槍を通常の長さに戻し、穂先を足下の氷橋に向ける。「余は宣雍粛宗皇帝の血胤なり、安んぞ陋徒に辱めを受けんや?」
彼は勢いよく地を踏み鳴らす。
真視の力で既に雪橋の構造を見抜いていた。最も脆弱な箇所は足下三尺の地点。氷層が裂ける轟音が雷のように響き渡る。
「狂人め!」エレゲは一目散に逃げ出す。
嬴明は逃げなかった。断裂した氷橋の上に立ち、漆黒の巨口を開けた深淵が、自身と逃げ遅れた十数人の粛真兵を飲み込む様を見つめる。
風の音が耳いっぱいに満ちる。
墜落する最中、崖際から身を乗り出すエレゲの姿が目に入る。その顔には驚きと恐怖が入り混じっていた。
遠くから「殿下!」と呼ぶ声が聞こえた気がした。
そして胸の奥、何かが鼓動を打つ音を捉える。
体内に無理やり封じられた、あの龍だ。鈍い鼓動が響く。
太鼓のように、雷のように、万年来眠り続けた何かが、目覚め始める。
いつの間にか時が過ぎた。
嬴明は寒さに叩き起こされた。
厚い雪に体が埋もれ、左足は落下した氷岩に挟まれ、右腕には骨まで届く深い傷が走り、血は暗紅色のかさぶたとなって固まっている。頭上には細い一筋の天光が見え、距離は少なくとも五十丈。
生きていた。
「命が強いものだ。」嗄れた声で二度笑い、自身の血にむせて咳き込む。
周囲には数体の粛真兵の死体が無造作に横たわる。橋から墜落した者たちで、完全な姿の者は一人もいない。
深く息を吸い、真視を発動させる。
金色の紋様が視界に浮かび、自身の左足の状態を捉える。骨は折れておらず亀裂が入っただけ、血管は破れていない。ただ氷岩に挟まれているだけだ。
続いて三丈外にある拳大の岩塊をロックする。
転換。
次の瞬間、嬴明は岩塊の位置に移り、左足が氷岩から抜け出す。激痛にうめき声を上げるが気を失わない。氷壁に寄りかかり、荒い息をつく。
耳には鳴り響きが残る。龍が騒ぎ立てている証だ。
数年前、五叔父に強いられて龍を飲み込んで以来、このものは体内で眠り続けていた。時折このように鼓動を打ち、鼓動のたびに体温が上昇し、爪は硬くなり、目尻に細かい赤い鱗が浮かぶ。
今回の鼓動は、過去いかなる時より激しい。
身の装備を確認する。赤霄剣は腰後ろに差し、紅纓槍は短棍へ縮んで腰前に収まっている。額巻きは血に浸っているが失くしてはいない。糧袋は空っぽ、水嚢は消え失せた。
幸い、腰に差した火銃だけは残っていた。
「上々だ。」ひび割れた唇を舐める。
言葉が落ちるや否や、氷淵の深部から重たい咆哮が響き渡る。
その鳴き声は知られるいかなる獣のものではない。粗野でねばつき、腐敗した悪臭を伴い、深淵の底から湧き上がってくる。
嬴明の瞳孔が収縮する。
粛真兵の死体から矢を一本抜き取り、下方へ投げ落とす。矢の落下軌道を真視が捉え続ける。
二十丈、三十丈、五十丈…… そして巨大な蠢動する黒い影を目にする。
影には八本の足が生え、胴体は百倍に膨れ上がった蠍のようで、尾の鉤には不吉な蒼い光が宿っている。這い上がってきていた。
畸変獣。
きっと黒き暴動が残した産物だ。戦闘の血の匂いに誘われ、深淵の最底から這い上がったのだ。
嬴明の手が赤霄剣の柄にかかる。
家伝の宝剣、三尺の両刃長剣。嬴氏数百代に受け継がれた鋒。
抜刀すれば、敵の血か、あるいは己の血を見ることになる。
本気の死闘で、彼はこの剣を抜いたことがなかった。五叔父がかつて告げたからだ。「赤霄剣を抜くな。抜刀する時、貴公は二度と手を休められなくなる。」
今こそその時か?
下方に迫る蒼い光を眺め、彼は剣から手を離した。
死を恐れているのではない。今はまだ、この一戦に剣を抜く価値がない。
腰前から紅纓槍を引き抜く。穂先に金赤の炎が立ち昇る。龍より授かった炎。微弱だが、周囲を照らすには十分な火力だ。
「かかってこい。まずはこの焼き棒で相手してやる。」
紅纓槍が一気に伸長し、穂先の炎が氷の裂け目全体を照らし出す。
畸変獣は耳を刺すような甲高い鳴き声を上げ、八本の足を一斉に蹴り、彼へ飛びかかる。
それと同時――
燕雍城、摂政王府。
嬴燼は手に持つ茶碗を階下に叩きつけた。
広間に集まる食客・幕僚は息をひそめ、誰一人顔を上げようとしない。ただ、額の二筋の白髪が風もないのに揺れ動くのが見える。
「もう一度言え。」声は極めて低く、絹を刃でなぞるような冷たさを帯びる。
緹騎司北鎮撫使の趙巽は地にひれ伏し、額を冷たい敷石に押しつける。「殿下…… 宸親王殿下は臨于関外にて粛真反乱軍の伏兵に遭い、軍需糧草は奪われ、殿下…… 殿下は不咸山の氷淵へ墜落、生死は不明との報せです。」
広間全体が五息の間、静まり返った。
それから嬴燼は笑った。
その笑い声を聞き、居合わせた者すべてが身の毛のよだつ思いを味わう。
「彭胤亭。」一字一句、その名を口にする。「よい、実によい。」
「小僧め、安くも我に叛くとは!」
彼は振り向き、壁に掛けられた太阿剣を抜き取る。
「令を伝えよ。京営は全軍北上、雲中軍を先鋒とせよ。緹騎司のすべての密偵を起動せよ。地を掘り起こしてでも、九郎を探し出せ!」
不咸山南麓、震親王の本営大幕。
彭胤亭は地図から顔を上げる。髪の組紐に挿した孔雀の羽飾りが微かに揺れる。奥深い瞳には今や血の筋が浮かんでいた。
「エレゲの報告では、嬴明が万丈の氷淵へ墜落するのを自ら目撃したと?」
斥候は頷く。「はい。同時に墜落した我が方の兵士は十七名に上ります。」
彭胤亭は黙り込む。
幕外では風雪が荒れ狂う。
長い沈黙の後、彼は口を開く。「捜索を続けよ。生き身でも死体でも、必ず確保せよ。」
「基下」傍らの幕僚が低く話しかける。「あちらには事が伝わったはずです。クレトゥ合汗の使者も到着し、十万の兵を出して南下を支援すると申し入れてきました……」
彭胤亭は手を挙げ、言葉を遮る。
「まず嬴明を探し出せ。」彼は振り向き、幕の中央に掛かる輿地図を眺め、視線を宣雍北疆の長城に定める。「この切り札があれば、嬴燼は我らと交渉せざるを得ない。」
「この切り札を失えば――」一瞬言葉を止める。
幕の垂れ布が開かれ、冷風と雪粒がなだれ込む。
遠く、不咸山は眠りについた白き巨獣のように、すべての音を飲み込んでいた。
一方の嬴明は、その巨獣の腹の中で、太古より生き残った畸変獣と、ますます騒ぎ立てる龍に直面していた。




