# 第14話 小さな命の、ために
# 第13話 公務の、空隙
朝の、長い、長い、窓辺の卓。
今朝、ヴォルフラムは——セレスティアより、先に、席に、着いて、待って、いた。
彼女が、サロンに、入ってくると——わずかに、椅子から、腰を、浮かせて——向かいの席を、静かに、促した。
「——お早うござります」
「お、お早う、ござります、陛下」
セレスティアは——頬を、薄く、染めながら、席に着いた。
二人ぶんのカップが、温かい湯気を立てて、並んで、いる。
昨日までと、似ているのに——何かが、決定的に、違って、いた。
向かい合わせの席が——今朝は、空いて、いない。
第11話の——『待っている、空席』、が——完成、して、いた。
***
セレスティアは——静かな、喜びを、噛みしめた。
ヴォルフラムも、何も言わなかった。
ただ、自分で、不器用に、ティーポットを、傾けて——彼女のカップに、二杯目を、注ぐ準備を、していた。
その、不器用な、穏やかな、朝。
昨日まで——彼女は、それを、完成、させるために——多くを、諦め、多くを、耐えて、きた、の、だった。
ようやく、手に、入りかけた——穏やかな、朝。
その、瞬間、だった。
***
どん、と、サロンの扉が、勢いよく、開いた。
飛び込んできたのは——クロウ。
その顔は、普段の冷徹な仮面が、完全に、崩れて、いた。
「——陛下、失礼を、お許しください」
「——北部辺境より、急報、にござります」
***
ヴォルフラムの、ティーポットを傾けていた手が——ぴたり、と、止まった。
「——呪われた魔獣群が——今度は、集団で、侵攻を、始めて、おります」
「すでに——村ふたつが、焼かれ——住民の死者は、百を、超えました」
ヴォルフラムの夜空の瞳が——すっ、と、曇る。
「魔獣群が——集団で、動く、というのは——」
「——呪いの、残滓、の、影響、か」
クロウは、低く、頷いた。
「——可能性は、極めて、高いかと」
***
部屋の温度が——すっ、と、下がった、気が、した。
手に入りかけた、穏やかな朝。
二人ぶんのカップ。
不器用に注がれかけた、二杯目の紅茶。
そのすべてが——
たった、一報の急報で——凍りつき、奪われた、の、だった。
***
ヴォルフラムは——長く、沈黙した。
彼の脳裏には——二つの、護るべきもの、が——交差、して、いた。
彼女、を、護りたい。
百を超える、帝国の民の、命、を、護らねば、ならない。
ヴォルフラムは——ジークと、クロウに、向き直って——低く、問うた。
「——私が、出るしか、ないか」
ジーク:「魔獣群の、出現数を、抑えるには——陛下、ご本人の、お力が、必要、です」
クロウ:「——城の警備は、私が、二倍に、致します」
***
ヴォルフラムは——セレスティアの方に、身体を、向け直した。
夜空の瞳には——苦渋、が、滲んで、いた。
「——セレスティア」
「私は——半月ほど——城を、空けねば、ならない、やも、しれません」
「——貴女様を、お一人にする、こと——お赦し、くださいますか」
***
彼は、彼女に、判断を、委ねた、の、だった。
命じる、では、なかった。
告げる、でも、なかった。
貴女様の、お赦しを、頂きたい、と——皇帝が、追放された娘に——頭を、下げる、よう、な、形、で。
セレスティアは——長く、考えた。
——『行かないで』、と、私が、言えば——あの方は、お行きに、ならない、だろう。
——け、れ、ど。
——それを、言えば——北部の、村の——傷ついた、たくさんの、人々が——苦しみ続ける、の、だ。
——あの広場で、転んだ、あの少女、の、ように——傷を負った、人、たちが——そこに、いる。
——私の、安全のために——誰かが、苦しみ続ける、の、は——
***
——嫌、だ。
それは、十二年、己の存在を、呪うように、生きてきた、少女、が——生まれて、初めて、抱いた、『他者のために、怒る』、感情、だった。
***
セレスティアは——顔を上げて、ヴォルフラムを、まっすぐに、見た。
「——どうぞ、お行きに、なって、ください」
「これは——自己犠牲、では、ござりません」
彼女の声には——細い、細い、凛とした芯、が、通って、いた。
「あなたが、お護りになる、この国の人々、を、私も、お護り、したいの、です」
「あなたが、背負って、いらっしゃるもの、を——私も、一緒に——背負わせて、ください」
「あの少女を、お救いになった、のは、私です。であれば——北部の、苦しんでいる、人々を、お救いする、お力を持つ、のは——あなたで、ござります」
「ふたりで——護りましょう」
「ご公務、お疲れさまで、ござります、陛下。——どうか、お気を、つけて」
***
ヴォルフラムの、夜空の瞳が——大きく、揺れた。
護られる側、では、なかった。
ふたりで、護りましょう、と——彼女は、告げた、の、だった。
千年。
彼が、誰かに、『一緒に、背負わせて、ください』、と、言われたことは——た、だ、の、一度も——な、か、っ、た。
***
ヴォルフラムは——椅子から、滑るように、彼女の前に、片膝を、ついた。
杖を、握る、手、が——わずかに、震えて、いた。
彼の、空いている方の手、が——セレスティアの、細い、白い手を、取りたい、衝動で——わなないて、いた。
けれど——彼は、懸命に、それを、抑えた。
触れられない、呪い——
その、呪いが、いま——物理的な、半月の、距離、に——姿を、変えて、い、た。
触れずに、隣にいる、ことすら——これから半月、彼には、許されない。
その皮肉を——
ヴォルフラムの胸が、引き裂いた。
「——ありがとう、ござります」
「——半月、後に——必ず、お帰り、致します」
「貴女様の、お側に——必ず、戻って、参ります」
***
翌、朝。
ヴォルフラムは——完全武装で、城門の前に、軍を、率いた。
漆黒の鎧、銀の長髪を、風に、なびかせて、馬上に、構える。
その姿は——もはや、不器用に、紅茶を、淹れる、男、では、なかった。
帝国の、皇帝、そのもの、だった。
***
セレスティアは——城門上の、高い窓から——それを、見送った。
馬上のヴォルフラムが——最後に、城を、振り返った。
高い窓に、白金の髪、が、見えた。
ふたりは——遠く、離れた距離から——目を、合わせた。
一秒。
二秒。
三秒。
言葉は、交わさなかった。
けれど——互いの胸に、相手の姿を、焼き付ける、時間、だった。
高い窓ごしの、無言の目線が——世界中の、どんな、甘い、別れの言葉、よりも——深かった。
やがて、ヴォルフラムは——前を、向き直り——馬を、走らせ始めた。
彼の、漆黒の軍勢が、静かに、城門を、越えて——北部の、地平の、彼方に——消えて、いった。
***
その、夜。
帝都の、地下深く——王立、歴史保管庫。
黒大理石の、長い廊下。
厚い、魔導の、結界。
武装した、警備兵が、四人、要所要所に、配置されている。
しかし——
その夜、——帝国の最高守護者、皇帝、は——北部に、出陣中。
城下の、警備体制、そのもの、が——わずかに、手薄に、なっていた、その夜。
***
ヘルムートは——ひとりで、侵入、した。
部下たちは、別働で、二つの、別の保管庫を、襲った。
軽装の、宝石や貨幣を、盗む、簡単な仕事——完全な、陽動、だった。
帝都警備の半数が、そちらに、誘い出された、頃。
ヘルムートは——歴史保管庫の、裏口から——音もなく、滑り込んだ。
***
彼は——魔導具を、使わなかった。
ただ、二十年、磨いて、きた、静かな足音、と、刃の運び、だけ、を、使った。
最初の警備兵——背後から、首の、急所を、刃の柄頭で、軽く、打つ。意識だけ、を、奪う。
彼は、警備兵を、殺さなかった。
しかし——
それは——慈悲、では、なかった。
死体を、見つけられる、よりも——警備兵が、目を覚ます、まで、の、時間、の、方が——長い。
異変に気づかれる、タイミング、を——最大限、遅らせる、ため——
徹底した、合理性、の、計算。
それだけ、だった。
***
ヘルムートは——四人の警備兵を、次々と、同じ手順で、沈黙させて——最奥の、保管室、に、至った。
歴史的、毒物の、保管棚。
その、奥の、奥に——一本の、黒い、小瓶。
『ベアトリス・ファルネーゼ王妃、献上、無色無臭、致死毒』
百年前、帝国への、和平の贈答品、として、献上された——猛毒。
ファルネーゼと、帝国の、歪な歴史、の、遺物。
ヘルムートは、それを——そっと、懐の内側に、納めた。
***
そして——去り際に。
彼は、懐から、もう、ひとつ、別のものを、取り出した。
白薔薇の、押し花、を、一輪。
それを——空になった、棚の、縁に——そっと、置いた。
それは、彼の、個人的な、感傷、では、なかった。
『ベアトリス様、お命じの、品——頂戴致しました』。
そういう、意味の——報告印、だった。
***
死人に対して、報告する、男。
毒親の、亡霊に——生涯、仕える、男。
呪われた、忠誠の証。
ヘルムートは——来た時と、同じ静けさで——保管庫を、出ていった。
***
翌、朝。
保管庫の、異変が、発見、された。
クロウが、急報を、受けて、現場に、駆けつけた。
警備兵たちは——気絶しているが、生きていた。
目立った損傷は——ない。
単なる、頸部への、軽い打撲、の跡、だけ。
最初——何が、盗まれたのか——わからなかった。
が、棚の縁の、押し花、を、見つけた、瞬間——
クロウの灰色の瞳が——凍りついた。
「——これは」
「——ファルネーゼ式の、『仕事完了報告』、の、印」
「ファルネーゼの、影部隊——彼らが、帝国内部に、入り込んで、いる」
***
部下:「——何が、盗まれたのですか」
クロウは、急いで、目録を確認した。
そして——顔色を、変えた。
「『ベアトリス王妃献上、無色無臭、致死毒』」
「触れただけで——半刻で、心臓が、止まる、毒」
***
怒り、では、なかった。
クロウの胸に——まず、押し寄せたのは——自責、だった。
私が、城下の警備を、統括して、いながら——侵入を、許した。
皇妃候補殿下を、お護りする、と——陛下に、お誓い、したのは、この、私、だ。
プロの、矜持が——根本から、傷ついた、傷口、に——
セレスティアを、絶対に、護り抜く、執念、に近い、保護欲、が——生まれて、い、た。
「即座に——城に、戻る」
「皇妃候補殿下の、警護を——今この時から——最大級に、引き上げる」
「使用人の、一人、一人、を——身元を、再確認、せよ」
「何人たりとも——殿下に、お近づき、させるな」
***
——同じ刻。
ファルネーゼ王国、王宮の、玉座の間。
アンジェリカは——耳を、抑えながら、父である国王に、訴えて、いた。
「父上——お聞き、ください」
「お母様の、うわごと、が——わたくしの、耳から——離れ、ません」
「お姉様を——連れ戻さねば——お母様の、お声は——止まらない、の、です」
***
玉座の上の、父王——
ベアトリスの王宮支配の、道具として、生きてきた、だけの、男。
今は——脱け殻のように、玉座に、沈み込んで、いた。
しかし、アンジェリカの、憔悴した姿、を、見て——
国王は——ぽつり、と、低い声で、呟いた。
「アンジェリカ——お前」
「——聖女の儀式を——演じる、か」
***
アンジェリカの、目が——大きく、見開かれた。
「諸国会議が——来月——王都で、開催される、手筈、だった、な」
「お前を——偽聖女、として——諸国に、お披露目すれば」
「——ヴァルガルドに——『セレスティアを、返せ』、と——公式に、要求できる、大義名分が——立つ」
***
アンジェリカの目に——ぎらり、と、何か、が、宿った。
それは、姉への、対抗心、だけ、では、なかった。
もっと、深いところに、沈んだ、もの——
わたくしが、聖女に、なれば——
お母様の、お声、は——止まる、だろうか。
お母様、は——わたくしを——『よくやったわ』、と——認めて、くださる、だろうか。
生きている、間は——一度も、認められたことの、なかった、わたくし、を——死んだ、お母様、なら——ようやく、認めて、くださる、だろうか。
壊れかけた、少女、の——切実な、渇望。
それが、姉の聖女としての地位を、奪う、という、決意、に——歪んで、現れて、いた。
「——やります、お父様」
「——お母様を、お救いする、ために——わたくしが——聖女に、なるのです」
***
同じ夜。
帝都ヴァルガルディアの宿屋。
ヘルムートは——懐の、黒い小瓶を——そっと、布で、包み直して、いた。
部下:「——計画は?」
ヘルムートは——短く、呟いた。
「——二日後」
「あの女が——城下の、慈善活動に——出る、日が——ある、らしい」
「そこで——終わらせる」
「皇帝は——北部だ。城に、戻らない」
「クロウ、筆頭魔導士の警護を、どう、引き剥がすか——だけ、の、問題、だ」
***
——温かい帝城の、皇帝不在の夜。
——冷たい侵入者の、二日後の、計画。
同じ夜の、同じ空気のなかに——二つの世界が——静かに、交差、して、いた。
***
帝城、セレスティアの寝台。
彼女は、ヴォルフラムの不在を——頬で、感じながら、眠って、いた。
肩には、まだ、あの方の外套。
胸には、母の指輪、と——『ふたりで、護りましょう』、という、決意。
彼女は——知らない。
二日後、彼女が、城下の慈善活動に、出る、計画——
そして——そこで、黒い小瓶が、静かに、彼女に、向けられている、こと、を。
***
血の月まで——あ、と、十八日。
皇帝、不在。
皇帝の、盾、は——今、城に、い、な、い。




