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プロローグ(ユンからの手紙)

 転移陣から出たフランに、影がいくつも滑り寄ってきた。

 フランの腕には零れ落ちそうなほど食料品が詰め込まれたかごが抱えられている。いくつかの転移陣と飛竜を乗り継いでキャナ王国の王都、万花の都からの帰り道、ラカン帝国南方の港町イストの市場に寄って買ったものだ。

「何も変わったことはなかった?」

 フランの問いに、フランにしか判らない声で妖魔たちが答える。

「そう。ご苦労さま」

 留守番をしていた妖魔たちが嬉しそうにきゅいきゅいと鳴いてフランの影に飛び込んでいく。

 転移陣はエントランスにある。フランは中庭に面した廊下を通り、キッチンへと向かった。キッチンには上部に氷を入れて冷やすタイプの冷蔵庫がある。ただし、ニムシェを出た時に入れた氷がまだ溶けていないのはフランの術だ。

 氷を溶かさずに守ってくれていた精霊に感謝の歌を歌い、食料品を仕分けし、冷蔵庫に仕舞う。

 リビングに移り、影の中から書物を一冊取り出し、テーブルに置く。

 キャナ王国の外務大臣を務めたこともある古い友人が、キャナ王国で起こった一ツ神の騒動について400年ほど前に記したものだ。

 フランは何も忘れない。

 内容はもちろん、すべて憶えている。

 しかし、そうした記憶を心の隅に追いやり、書物を一頁ずつめくり、ひと文字ずつ丁寧に読むと友人の息づかいが感じられる気がした。彼がすでに死んでいることさえ忘れることができた。

 黒い剣の使い手が、姫姉さまが、現れた。

 世界は遠からず滅ぶ。

 内容を忘れることはないが、もう文字を追うことはできなくなる。それを残念に思い、ここ、ラカン帝国の帝都ニムシェにある自宅から、わざわざキャナ王国の自宅まで行って取って来たのである。

 寝室や客間を回って窓を開いていく。

 ニムシェを北西から南東へゆったりと流れるイム河に向いたキッチンの窓を開くと、街を渡ってきた涼しい川風が吹き込んできた。部屋にこもった淀んだ空気を抱え、建物の中央に設けた中庭から空へと帰っていく。

 フランはキッチンで水を一口だけ飲み、少し考えて、冷蔵庫で冷やしておいたとっておきの酒をグラスに注いだ。

 旧大陸の南方、神の支配する森で造られている酒だ。

 匂いを嗅ぎ、口に含んで舌に乗せると、自然と笑みが零れた。美味い。技術が廃れることなく継承されている。

 これを呑めなくなるのも残念ね。と思う。

 いくつかつまみも用意し、トレイに乗せてリビングに戻ると、さっきテーブルに置いた書物の上に、封書があった。


『フラン姉さまへ』

 と記してある。

 良く知っている字。ユンの字だ。

 フランは己の影の中にいる妖魔を軽く睨んだ。

 妖魔たちがそそくさと影の中深くへと沈んでいく。ここにいることを誰がユンに報せたか判らなかったし、誰がこの封書を置いたかも判らなかったが、誰かがここに来たことに妖魔たちが気づかなかったハズがない。

 気づいて、フランに報せることなく見逃したのだ。

 フランはトレイを置き、ソファーに腰を下ろして封書を取った。

 封を切り、手紙を開くと、柔らかく几帳面なユンの字でデアで別れてから何があったか記してあった。

『お母さまは、神々がつき添われて黒い剣の中へと旅立たれました』

 ああ、みんな行ってしまった。と思って読み進めると、

『ただ、知恵の神、エア様だけはこちらに残られました。最後まで見届ける義務があるとおっしゃられて』

 と記してあった。

『エア様は、今後は一ツ神と名乗ろう、とおっしゃられました。理由をお訊きすると、フラン姉さまに尋ねるが良い、と笑われていましたが、お姉さまは心当たりがございますでしょうか?』

 フランは薄く笑った。残念ね。と思う。知恵の神が本来の姿のまま笑うところなど、フランですら見たことがない。

 エア神の裏の顔は、混乱と狂気を司る闇の神だ。闇の祖であるクマルビをはじめとする闇の神々がラクドの黒い城壁となって封じられてからは、死の公女や、他の闇の神々の務めをひとり残った彼の神が果たされてきた。今後は闇の神々の職務だけでなく、光の神々の職務も果たそうということだろう。

 フランがここにいることをユンに教えたのも、封書を置いたのも、もしかするとエア神そのひとかも知れない。

『フラン姉さまが御一人で行かれてから、こうして手紙をしたためていても、フラン姉さまと出会った頃のことをよく思い出します』

 ユンと出会った頃か。

 フランは思い出す。

 もう、50年以上前になる。肉体的には、フラン自身は13歳。ユンはまだ、17歳だった。

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