(6)
その夜も、三人は木のところへ行った。
空には、雲がほとんどなかった。月が明るくて、足元がよく見えた。草の匂いが、いつもより強く鼻をくすぐる。夜の空気は、昼間よりひんやりとしていた。
ケントは、もう胸がざわざわしていなかった。かわりに、静かだった。それが、少し不思議だった。こんなに静かでいいのだろうか。何か、忘れているような気がして、少し不安になった。
木の前に立ったとき、ケントは、いつもみたいに、すぐに実を探した。
でも、木を見上げても、ケントは、すぐには分からなかった。目をこらして、枝の一本一本をたどる。
実が、なっていない。
一つも、なかった。
枝だけが、月明かりの中で伸びている。葉っぱは茂っているのに、オレンジ色は、どこにもなかった。ケントは、もう一度、じっくりと眺めた。下の枝も、上の枝も、見落としがないか確かめる。それでも、実は一つもなかった。
マイも、しばらく黙って木を見上げていた。小さな体が、じっと動かない。それから、ケントの袖を、小さな手でぎゅっとつかんだ。
「……ないね」
その声は、小さくて、残念そうだった。
ばあちゃんは、うなずいた。
「今日は、みんな、ちゃんと覚えとるからやね」
説明というよりも、確かめるみたいだった。その声には、何か、深い意味が込められているように思われた。
ケントは、胸の奥に、じいちゃんの笑った顔があるのを感じた。縁側で、お茶を飲んでいたときの顔。目尻に皺を寄せて、優しく笑っていた。
父の立っていた場所も、まだ、はっきりと思い出せた。水族館に行ったときと同じ姿で、ケントを見つめていた父。
忘れてはいなかった。でも、無理に思い出そうとしてもいなかった。ただただ、そこにあった。胸の奥に、静かに沈んでいた。
それでいいのだと、初めて思えた。無理に呼び起こさなくても、忘れたわけじゃない。そう思うと、何か、大事なことが分かった気がする。温かいものが、胸の真ん中にあるのを感じた。
風が吹いて、枝が鳴った。実がなくても、木はそこにある。どっしりと、地面に根を張って、立っている。それは、何も変わっていなかった。月の光が、幹をわずかに照らしている。
ばあちゃんは、しばらく木を見てから、ケントとマイのほうを向いた。その目は、いつもより真剣だった。
「もうすぐ、帰るんやね」
二人は、こくんとうなずいた。ケントの胸が、少しだけ、ちくんとした。
「また、来てくれるか」
ばあちゃんの声は、いつもより低かった。その声には、何か、頼むような響きがあった。まるで、大事な約束をするみたいに。
ケントは、すぐには答えられなかった。この木のことを、全部引き受けるみたいで、少し重かった。また来るということは、この木を、ずっと覚えているということだ。それは、簡単なことじゃない。しっかりしないと。
でも、マイが先に言った。
「くるよ」
はっきりとした声だった。マイは、ばあちゃんをまっすぐ見ている。その目は、迷っていなかった。
ケントは、その横顔を見てから、うなずいた。マイが言えるなら、自分も言える。
「うん」
ばあちゃんは、ほっとしたように、息をついた。その顔が、少しだけ緩んだ。
「そのうち、わたしが見に来られん日もあるからね」
その言葉の意味を、ケントは、全部は理解できなかった。でも、何となく、重たいものを感じた。ばあちゃんが、ずっとここにいられるわけじゃない。そういうことなのかもしれなかった。
けれど、分かりたくないとも思わなかった。知らないふりをするのは、違う気がする。受け止めなきゃいけないことなんだと、ケントは感じていた。
三人は、何も言わずに、家のほうへ戻った。草を踏む音だけが、静かに響く。
振り返ると、月明かりの中で、木の枝が静かに伸びていた。やはり実はない。でも、木はたしかにそこにある。それだけで、何か、心強かった。いつか、また、会いに来よう。ケントは、そう思った。




