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【完結済】夜にみかんがなる木(仮題)  作者: アレックス・フクリー


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(5)

 次の日。

 朝、目が覚めると、すべてが夢だったような気がした。でも、胸の奥に残っているぬくもりが、それが現実だったことを教えてくれた。

 いつも通り、みかんはテーブルの上のかごに入っている。

 朝ごはんの後、ケントはそのみかんをじっと見つめた。昨日の夜、木になっていたみかん。それと、これは同じなのだろうか。同じように見えるけれど、何かが違う気もする。

 ケントは落ち着かなかった。一日中、そわそわしていた。マイと裏山に行っても、カブトムシを探す気になれなかった。頭の中は、昨日の夜のことでいっぱいだった。

 マイは何も言わなかったけれど、ケントの様子に気づいているようだった。時々、心配そうにこちらを見ている。

 みかんを食べても、昨日の夜ほど、何も感じなかった。

 ただの、普通のみかん。甘くて、少し酸っぱくて、みずみずしい。でも、それだけ。何も起こらない。

 それが少し不安だった。

 昨日の夜のことは、本当にあったのだろうか。じいちゃんは、本当にいたのだろうか。それとも、ケントが見たかっただけなのだろうか。考えれば考えるほど、分からなくなっていく。


 そして夜。

 お風呂から上がって、タオルで髪を拭いていると、ばあちゃんが声をかけてきた。

「みんなで見に行こうか」

 ケントの手が止まった。心臓がドクンと鳴った。

 ケントとマイは黙ってうなずいた。

 もう、隠れて後をつけていく必要はない。ばあちゃんは最初から知っていた。そして今、一緒に行こうと言ってくれた。

 三人は一緒に家を出た。今度は、堂々と。ばあちゃんが先を歩き、ケントとマイが並んで後に続いた。夜道は静かで、月が明るかった。

 家の裏の一番奥。

 木の前に着くと、ケントはすぐにわかった。

 みかんが木になっていた。

 昨日よりも、少ない。でも、確かに、そこにある。

 枝の先に、いくつかのみかんが、静かに揺れていた。その光景は、もう不思議ではなかった。むしろ、当たり前のことのように感じた。まるで、ずっと昔から、そうだったかのように。

 ばあちゃんは何も言わずに、みかんを一つずつ、ケントとマイに手渡した。

 ケントはその重さを、前よりもはっきりと感じた。小さなみかん。でも、ずっしりとした重さがある。それは、ただの重さではないように思えた。何か大切なことが、この中に詰まっているような。


「考えんと、あかんよ」


 ばあちゃんはそれだけ言った。その言葉は、優しかったけれど、厳しくもあった。

 考えること。

 思い出すこと。

 それが大切なのだと、ばあちゃんは教えてくれている。

 ケントは右手で持ったみかんを見つめた。オレンジ色が、月の光で少し白っぽく見える。ケントは、ゆっくりと目を閉じた。

 じいちゃんの顔は、すぐに浮かんできた。縁側に座っている姿。笑っている顔。新聞を読んでいる姿。ケントに将棋を教えてくれたときの、真剣な顔。

 けれど、今日はそれだけでは足りなかった。心の中で、何かが引っかかっている。もっと、思い出さなければいけないことがある。もっと、向き合わなければいけないことがある。

 思い出そうとすると、別の顔が浮かんできた。


 お父さん。


 ケントの息が止まった。

 名前を思い出す前に、声が浮かんだ。怒っているわけでもなく、優しいわけでもなく、曖昧な声。いつも、どこか遠い声。

 ケントは、みかんをむいた。手が震えた。皮をうまくつかめない。何度か失敗して、ようやくむけた。指先に、みかんの香りが広がる。

 そして口に入れた。ゆっくりと、噛んだ。

 何も起こらなかった。

 普段食べているみかんと同じ。甘くて、酸っぱくて、ただのみかん。

 そう思ったとき、視界の端に、人影が見えた。

 ケントは息をのんだ。

 父は、少し離れたところに立っていた。木の陰に。月の光が、その姿を照らしている。前よりも、やせて見えた気がした。顔も、少し疲れているように見えた。いつもスーツを着ている父が、今日はラフな服を着ている。確か、昔一緒に水族館に行ったときに着ていた服だ。マイと三人でイルカのショーでずぶぬれになったことを思い出す。

 そして、目が合った。

 父は、何かを言いたそうだった。口が、少し動いたように見えた。でも、声は聞こえなかった。

 風の音だけが、ケントの耳に届いた。何を言おうとしているのだろう。謝ろうとしているのだろうか。それとも、ケントに何か伝えたいのだろうか。

 ケントは何か言わないと、と思った。今、言わないと。今しかないかもしれない。が、言葉が出てこなかった。喉が詰まったようだった。何を言えばいいのか分からなかった。頭の中が、真っ白になっていく。


 謝るのか。

「ごめんなさい」と言うのか。

 何を謝るのか。

 ケントは何も悪いことをしていない。でも、何か謝らなければいけない気がした。


 聞くのか。

「どうして」と聞くのか。

 どうして、いつも忙しそうなのか。

 どうして、一緒にいてくれないのか。

 でも、それを聞いても、答えは返ってこないだろう。


 それとも叫ぶのか。

 心の中にあるモヤモヤを、全部ぶつけるのか。

 でも、何を叫べばいいのか分からなかった。叫びたいことは、たくさんあるのに。


 考えているうちに、父の姿は、暗闇に溶けていった。ゆっくりと、薄れていった。最後まで、父は何も言わなかった。ただ、じっとケントを見ていた。その目は、悲しそうにも見えた。

 ケントは気づくとみかんを全部食べ切っていた。

 胸の奥がジンと熱くなる。それが悲しいのか、悔しいのか、自分でもよく分からなかった。ただ、何かが、胸の中で渦巻いていた。言葉にできない、たくさんの気持ち。それが、ぐるぐると回っている。

 マイの方を見ると、マイはケントをじっと見ていた。みかんには手を付けていなかった。そのみかんを、大事そうに両手で持ったまま。マイは、ケントの顔を見て、何かを感じ取ったようだった。いつもより、真剣な顔をしている。


「おとうさん?」


 マイは小さい声で言った。その声は、優しくて、心配そうに聞こえた。

 ケントは黙ってうなずいた。うなずくことしかできなかった。声を出したら、泣いてしまいそうだった。唇を噛んで、こらえる。

 ばあちゃんは、何も聞かなかった。ただ、ケントの肩にそっと手を置いた。

 その手はしわが多くて、少しごつごつしていた。でも、とても優しかった。その温かさが、ケントの肩から、じんわりと体全体に広がっていった。少しずつ、胸の苦しさが和らいでいく。

 風が吹いて、木の枝が揺れる。みかんも一緒に揺れている。月の光を受けて、小さく、静かに。

 ケントには、その音が、何か言いかけているように聞こえた。風の音。葉の音。みかんが揺れる音。それは、言葉ではない。でも、何かを伝えようとしている。


 忘れないで。

 思い出して。

 大切にして。


 ケントは、空を見上げた。

 月が、明るく輝いている。雲一つない、澄んだ夜空。星も、たくさん見えた。小さな光が、無数にまたたいている。

 ケントは、深く息を吸った。夜の空気は冷たくて、肺の奥まで染み込んでいく。

 三人は、しばらくそこに立っていた。誰も何も言わなかった。ただ、静かに、木のそばにいた。

 みかんは、まだ枝に残っていた。

 明日も、なるのだろうか。それとも、もうなくなってしまうのだろうか。

 ケントには、分からない。でも、今は、それでいいように思えた。今、ここにいること。三人で、一緒にいること。それだけで、十分だった。

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