第7章 前例になるということ
「前例が、ありますよね」
その言葉は、軽かった。
確認のつもりで出しただけの一言。
でも、場の空気は一瞬で揃った。
「ええ、あります」
誰かが答える。
それだけで、話は前に進んだ。
私は、そのやり取りを横で聞きながら、妙な感覚に襲われていた。
“前例”という言葉が、いつの間にか安心材料として使われている。
刻印盤の前で、誰かが迷うことは少なくなった。
盤が示す条件よりも、先に思い出されるものがある。
――あの時は、どうだったか。
「今回も、同様の判断で」
そう言われた瞬間、私は気づいてしまった。
それが確認ではなく、結論として扱われていることに。
「……少し、待ってください」
思わず声を出していた。
視線が集まる。
責める色はない。
ただ、理由を待つ顔。
「前回と、状況は似ていますけど」
言葉を選ぶ。
「完全に同じでは、ないですよね」
一瞬の沈黙。
誰かが資料に目を落とす。
「差分は……」
そう言いかけて、言葉が止まる。
差分はある。
でも、それが判断を変えるほどのものかどうかは、誰にも即答できなかった。
「前回は、問題ありませんでした」
その一言で、空気が戻る。
私の言葉は、それ以上先に進まなかった。
「ええ」
誰かが頷く。
「今回も、問題ないでしょう」
“でしょう”
その曖昧さが、逆に強かった。
私は、資料を閉じた。
反論する材料は、なかった。
否定する理由も、見つからない。
それでも。
「前例って」
会議が終わり、廊下に出たところで、私はぽつりと言った。
「便利だね」
隣を歩いていたフィオが、小さく頷く。
「考える時間が、短くなります」
「そう」
私は息を吐く。
「でもさ」
足を止める。
「前例って、誰かの判断だよね」
フィオは、こちらを見る。
「はい」
「その判断をした人は」
言葉が、少しだけ重くなる。
「その時、ちゃんと迷ってたはずなんだ」
フィオは、何も言わなかった。
否定も、同意もない。
ただ、静かに聞いている。
「前例になるとさ」
私は続ける。
「迷った跡が、消える気がする」
フィオは、少しだけ目を伏せた。
「……それでも」
小さな声。
「使われます」
「うん」
私は頷く。
「便利だから」
刻印盤の前を、人が通り過ぎていく。
盤は今日も静かだ。
前例は、刻まれない。
でも、確実に残る。
誰かの判断として。
誰かの責任として。
私は、その“誰か”が、もう特定されつつあることに、気づいてしまっていた。




