表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
判断は、正しさではない。ただ、引き受け続けることだ。  作者: 科上悠羽


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

7/21

第7章 前例になるということ

「前例が、ありますよね」


その言葉は、軽かった。

確認のつもりで出しただけの一言。

でも、場の空気は一瞬で揃った。


「ええ、あります」


誰かが答える。

それだけで、話は前に進んだ。


私は、そのやり取りを横で聞きながら、妙な感覚に襲われていた。

“前例”という言葉が、いつの間にか安心材料として使われている。


刻印盤の前で、誰かが迷うことは少なくなった。

盤が示す条件よりも、先に思い出されるものがある。


――あの時は、どうだったか。


「今回も、同様の判断で」


そう言われた瞬間、私は気づいてしまった。

それが確認ではなく、結論として扱われていることに。


「……少し、待ってください」


思わず声を出していた。


視線が集まる。

責める色はない。

ただ、理由を待つ顔。


「前回と、状況は似ていますけど」


言葉を選ぶ。


「完全に同じでは、ないですよね」


一瞬の沈黙。

誰かが資料に目を落とす。


「差分は……」


そう言いかけて、言葉が止まる。


差分はある。

でも、それが判断を変えるほどのものかどうかは、誰にも即答できなかった。


「前回は、問題ありませんでした」


その一言で、空気が戻る。

私の言葉は、それ以上先に進まなかった。


「ええ」


誰かが頷く。


「今回も、問題ないでしょう」


“でしょう”

その曖昧さが、逆に強かった。


私は、資料を閉じた。

反論する材料は、なかった。

否定する理由も、見つからない。


それでも。


「前例って」


会議が終わり、廊下に出たところで、私はぽつりと言った。


「便利だね」


隣を歩いていたフィオが、小さく頷く。


「考える時間が、短くなります」


「そう」


私は息を吐く。


「でもさ」


足を止める。


「前例って、誰かの判断だよね」


フィオは、こちらを見る。


「はい」


「その判断をした人は」


言葉が、少しだけ重くなる。


「その時、ちゃんと迷ってたはずなんだ」


フィオは、何も言わなかった。

否定も、同意もない。


ただ、静かに聞いている。


「前例になるとさ」


私は続ける。


「迷った跡が、消える気がする」


フィオは、少しだけ目を伏せた。


「……それでも」


小さな声。


「使われます」


「うん」


私は頷く。


「便利だから」


刻印盤の前を、人が通り過ぎていく。

盤は今日も静かだ。


前例は、刻まれない。

でも、確実に残る。


誰かの判断として。

誰かの責任として。


私は、その“誰か”が、もう特定されつつあることに、気づいてしまっていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ