第10章 便利だったはずのもの
楽になったはずだった。
確認の回数は減り、判断は早くなり、現場は滞らなくなった。
結果も安定している。
数字を見れば、改善は明らかだった。
それなのに。
「……疲れましたね」
ぽつりと、フィオが言った。
書類をまとめながらの一言だった。
誰に向けたとも分からない、小さな声。
「そう?」
私はそう返しながら、自分の声が思ったより軽いことに気づいた。
「前より、忙しくはないでしょ」
「はい」
フィオは頷く。
「忙しくは、ないです」
その言い方が、少し引っかかった。
「でも」
彼女は続ける。
「判断が終わるまでの時間は、短くなりました」
「うん」
「……考える時間も」
私は、手を止めた。
フィオは、言葉を選びながら続ける。
「短くなった気がします」
その瞬間、胸の奥に、はっきりとした違和感が走った。
考える時間。
削られているのは、そこだった。
「判断が早い=いいこと」
そう思ってきた。
現場も、それを歓迎している。
でも。
「考えなくてよくなるのって」
私は、ゆっくりと言った。
「楽、なんだよね」
フィオが、こちらを見る。
「責任が、軽くなる感じがする」
「……はい」
「でもさ」
私は、資料を閉じる。
「それって、本当に軽くなってるのかな」
フィオは答えなかった。
でも、否定もしなかった。
刻印盤の前に立つ人は、もうほとんどいない。
盤は、ただそこにあるだけだ。
代わりに、人が集まる。
判断を持っていると見なされた人のところへ。
「桐生さん」
私は、ふと名前を出した。
「前より、楽そうに見える?」
フィオは、少し考えてから首を振る。
「……いいえ」
「だよね」
私は、息を吐く。
「たぶんさ」
言葉が、自然と出てくる。
「楽になったのは、周りだけだ」
フィオの表情が、わずかに強張る。
「判断を任せて」
「前例を使って」
「名前に頼って」
私は続ける。
「考えなくてよくなった人が、増えただけ」
沈黙。
「それって」
私は、言葉を止める。
「便利、なのかな」
答えは出ない。
でも、問いは残った。
その日の帰り道、刻印盤の前を通り過ぎながら、私は足を止めた。
盤は何も映していない。
ただの道具だ。
そう、何度も言い聞かせてきた。
でも今は、少し違う。
――便利だったはずのものが、
考えなくなる理由になっている。
そのことに気づいてしまった以上、
もう、元には戻れない気がしていた。




