第1章 刻印盤の前で
刻印盤の前に立つと、いつも空気が少しだけ変わる。
音が消えるわけでも、人の動きが止まるわけでもない。ただ、その場にいる全員が「次」を待つようになる。その感覚が、私はあまり好きじゃなかった。
盤の表面には、淡く光る線が浮かんでいる。条件は揃っていた。数値も基準も、どれも問題ない。刻印を使えば、処置はもっと早く、確実に進む。
――はずだった。
「……」
誰も、最初の言葉を出さない。
医師は盤を見てから、視線を横に流す。
記録係はペンを持ったまま、まだ書き始めない。
その視線の流れを追って、私は気づいてしまった。
最後に向けられる先が、もう決まっていることに。
桐生さんは、刻印盤から少し距離を取って立っていた。
近いのに、触れられない位置。
その人がそこにいるだけで、場の重さが一段下がるのを、私は何度も見てきた。
少しの間があった。
迷っているようには見えなかった。ただ、その場を一度、全部受け止めているだけの時間。
「刻印は使わない」
短い一言だった。
理由も説明も、続かなかった。
医師が一瞬だけ眉を動かし、それから頷く。
誰も反論しない。誰も理由を求めない。
処置はそのまま続行され、結果は悪くなかった。
刻印を使わなくても、十分だった。
そう言ってしまえば、それで終わる話だった。
空気はすぐに元に戻り、盤の光も消える。
私は小さく息を吐いた。
――また、だ。
記録係がペンを走らせ、最後に一言、確認する。
「……次も、同じ扱いで?」
問いは、軽かった。
でも、その言葉が浮かんだこと自体が、少しだけ気になった。
桐生さんは、答えなかった。
否定もしない。肯定もしない。
ただ、その問いは流されることもなく、宙に残った。
誰かが続きを言う前に、場は動き出す。
それで、この件は終わったことになった。
私は刻印盤を一度だけ振り返る。
盤はもう何も映していない。
ただの道具だ。そう、何度も自分に言い聞かせてきた。
それなのに。
判断が、どこに落ちたのか。
誰のものになったのか。
その答えだけが、盤の上ではなく、人の方に残っている気がした。
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