慈悲の歪み
※史実をもとにした創作作品です。
実在の人物・出来事とは一部異なります。
生類憐れみの令が発布されてから、一ヶ月が過ぎた。
江戸の空は、秋の訪れを予感させるように、少しずつ澄み渡り始めていた。
朝の陽光が路地の石畳を優しく照らし、
遠くの川面がキラキラと輝く。
だが、町の賑わいは、表向きだけ変わらなかった。
辻の呼び声はまだ響き、
店先の暖簾が風に揺れる。
舟の櫂の音が水を叩き、
子どもたちの笑い声が時折聞こえる。
なのに、人々の足取りは重く、
視線は下に落ちるようになった。
あの法が、静かに町の息遣いを変えていた。
辻ごとに、犬小屋が建ち並び始めた。
粗末な木組みの小屋で、屋根は薄く、
雨が染み込みそうなほど。
だが、数だけは異様に多く、
墨で大きく書かれた札が打ち付けられている。
「御犬様御休所」
その文字は、朝の光に黒く浮かび上がり、
町人たちを威圧するように立っていた。
人々は、小屋の前を避けるように歩く。
足音を忍ばせ、視線を逸らし、
まるで影を踏まないように。
犬の鳴き声が聞こえるたび、胸がざわつく。
あの小さな命が、今や自分たちの生活を縛る鎖となっていた。
餌代の徴収が始まったのは、そんな頃だった。
「一軒につき、米二合」
役人が長屋の前に立ち、帳面を広げて淡々と読み上げる。
声は穏やかだが、目は鋭く、周囲を舐めるように見回す。
理由を問う者はいない。
「御法度ゆえ」。ただそれだけ。
払えぬ者には、借りがつく。
借りが積もれば、名が帳面に赤く残る。
名が残れば、目をつけられる。
巡回の役人が、毎日のように訪れるようになる。
町は、静かに変わった。
誰かが誰かを、見るようになった。
目が合えば、すぐに逸らす。
密告の風が、路地を吹き始めたのだ。
「あの隣の者が、犬を追い払ったらしい」
「裏長屋で、夜中に鳴き声がした」
ささやきは、真偽などどうでもよかった。
役人はただ記す。
記せば、それが「点」になる。
「御上の御心に叶う働き」。
役人たちの合言葉は、そんなものだった。
巡回は、もはや警らではない。
狩りだった。
人々は、互いの影を恐れ、言葉を控えめにする。
笑い声が減り、代わりにため息が町を満たす。
あの慈悲の法が、意外な毒を生んでいた。
ある昼下がり、陽光が長屋の屋根を温かく照らす中、
犬小屋の前で一人の老人が立ち尽くしていた。
背は曲がり、着物は擦り切れ、
指先は細く震えていた。
腹が、ぐうと鳴る。
老人は、辺りを見回した。
路地は静かで、誰もいない。
向かいの店の暖簾が微かに揺れ、
遠くの三味線の音がかすかに聞こえる。
誰も、こちらを見ていない――そう思った。
ゆっくりと、犬の餌桶に手を伸ばす。
握ったのは、乾いた粟飯。
冷たく、固い感触が指に伝わる。
老人は、家族の顔を思い浮かべる。
病床の妻、飢えた孫たち。
今日の米は、もう底を尽きかけていた。
この一握りが、命を繋ぐかもしれない。
あの法が、犬を守るなら、人はどうなるのか。
胸の奥で、微かな怒りと悲しみが混じり合う。
その瞬間、犬が吠えた。
痩せた体を前に出し、守るように低く唸る。
だが、噛みつきはしない。
ただ、忠実に自分の餌を守るだけ。
老人は、一瞬身を竦めた。
目が合い、犬の瞳に映る自分の姿――
疲れ果て、縮こまった影。
だが、それでも飯を口に運ぶ。
噛みしめる味は、苦く、涙の味に似ていた。
向かいの店の者が、暖簾の隙間から見ていた。
路地の奥の女も、洗い物を止め、見ていた。
通りがかった役人も、足を止めて見ていた。
――誰も、止めなかった。
老人は、黙って噛みしめ続ける。
涙は出ない。
ただ、胸の奥で、何かが崩れる音がする。
犬だけが、吠えていた。
あの鳴き声が、町の静けさを引き裂く。
やがて、誰かが小さく呟いた。
「……盗みだぞ」
だが、声は続かない。
盗んだのは、犬の飯。
守られる命は、犬の命。
老人の命は、秤にすら載らない。
この法の慈悲が、皮肉にも人を追い詰める。
老人は、その場を離れた。
背中は、さらに小さくなっていた。
役人は、帳面を閉じる。
「……見逃すか」
それが、彼なりの慈悲だった。
だが、老人の心には、温もりは届かない。
ただ、無力感が広がるだけ。
人々は、犬の前で道を譲るようになった。
犬が寝ていれば、起こさない。
吠えられれば、頭を下げる。
蹴るどころか、追い払うことすら、罪になる。
人々は、学んだのだ。
――犬を守れば、咎められない。
――人を守っても、評価されない。
町は、確かに静かだった。
だがそれは、安らぎではない。
呼吸を止めた静けさだった。
桜は、川辺で一人立ち止まった。
水面に映る夕陽が、優しく揺れる。
町のささやきが、風に混じって聞こえる。
あの老人の姿を思い出し、胸が疼く。
十五の彼女は、胸元の痣に手を当て、思う。
――この法が、守るはずの命を、なぜか歪める。
生きることは、痛みを抱えながら選ぶこと。
だが、老婆の言葉が蘇る。
「強く生きてりゃ、大丈夫だよ」。
微かな希望が、胸を温かくする。
江戸は、ゆっくりと、しかし確実に、狂い始めていた。
慈悲の名の下に、人々の心が、静かに蝕まれていく。
誰もが、共感する痛みを抱えながら。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
次話もお付き合いいただければ幸いです。




