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選択の夜

※史実をもとにした創作作品です。

実在の人物・出来事とは一部異なります。

村から背を向けられ、家に戻る夜が増えていった。


戸を閉めても、外の視線は消えない。

闇の向こうで、誰かが見ている気配だけが残る。

風が戸の隙間から入り込み、冷たい指のように頬を撫でる。

春は毎夜、桜を抱きしめながら、静かに息を潜めた。

小さな体が、春の胸で規則正しく上下する。

その温もりが、唯一の灯火だった。


左治衛は、ますます酒に溺れた。

言葉は荒れ、沈黙は重く、囲炉裏の火だけが、毎夜虚しく揺れていた。

薪が燃え尽きる音が、パチパチと小さく響く。

酒の匂いが部屋に染みつき、春の鼻を刺す。

左治衛の目は、日に日に濁り、焦点を失っていく。


春は悟っていた。

この家は、もう「戻れる場所」ではない。

けれど、逃げ場はなかった。

守ると決めた以上、ここに立ち続けるしかなかった。

桜の小さな手が、春の指を握る。

その力が、弱々しく、しかし確かだった。


そして――

その夜は、嵐とともにやって来た。


雨が戸板を叩き、風が家を揺らす。

屋根を打つ音は次第に荒さを増し、まるでこの家そのものを壊そうとしているかのようだった。

土間は冷たく、足元に水が溜まり始める。

囲炉裏の火が、風に煽られて赤く揺らめく。


土間では、左治衛が酒に酔い崩れ、無様に転がっていた。

空になった徳利が倒れ、酒の匂いが湿った空気に混じる。

彼の息は荒く、吐息が白く立ち上る。


「……普通の子だったら……」


誰に向けるでもなく、独り言のように呟く。

声は低く、掠れている。


「こんなことには、ならなかった」


その言葉が、春の胸を深くえぐった。

反論の言葉は喉までせり上がるが、声にはならない。

春は、桜を抱いたまま、静かに耐える。

小さな体が、春の胸で震える。


雨音の向こうで、桜が小さく身じろぎした。

その動きが、春の心を刺す。


「今すぐ……川に棄てて来い!」


左治衛が、ふらりと身を起こし、短刀を抜いた。


刃が囲炉裏の灯を受け、濡れたように冷たく光る。

雨の音が、刃の輝きを増幅させる。

左治衛の目は、酒と怒りで赤く濁っている。


春は一歩も退かなかった。


「嫌です!」


叫ぶように言い、桜を庇って刃を押し返す。

小さな体を胸に抱きしめ、身を挺して立ち塞がる。

左治衛の息が、酒臭く春の顔にかかる。


次の瞬間、拳が飛んだ。

視界が白く弾け、体が土間に叩きつけられる。

痛みが遅れてやって来る。

息が詰まり、音が遠のく。

土の冷たさが背中に染み込み、雨水が頬を濡らす。


それでも、腕だけは離れなかった。


春は歯を食いしばり、身を丸めて腕の中の温もりだけを、必死に守る。

桜の小さな泣き声が、嵐の音に混じる。

その声が、春の耳に、骨に、心に、深く刻まれる。


そして、血に濡れた唇が、微かに動いた。


「桜……」


嵐の音に消えそうな、か細い声で囁く。


「お前は……生きるのよ」


それは祈りでも、願いでもなかった。

母が、母として選んだ、ただひとつの決意。

春の指が、桜の小さな背を撫でる。

最後の力で、抱きしめる。

涙が、桜の髪に落ちる。


その誓いは、誰にも聞かれなかった。


だが確かに――

この世で最も弱い命の耳に、届いていた。


そして春は、

この夜を境に、二度と同じ日常へ戻れなくなることを、まだ知らなかった。


嵐は、夜明けまで続いた。

雨音が、春の息遣いを、ゆっくりと、静かに、覆い隠していく。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

次話もお付き合いいただければ幸いです。

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