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血の側

※史実をもとにした創作作品です。

実在の人物・出来事とは一部異なります。

犬は、跳ね起きた。


裂けた腹が地面を擦り、ずるりと皮が引きずられる。前脚はもつれ、立ち上がるための形を作れない。それでも胴だけが先に持ち上がる。折れた体が“起こされた”みたいに。


皮の下で、骨が鳴った。

肩の角度が一つずつずれて、噛み合わないまま動いている。


濁った眼が、こちらを向く。


一瞬だけ焦点が合った――ように見えて、すぐに抜け落ちた。

怒りでも恐怖でもない。感情の入る場所が最初からない、“空っぽ”の目。


牙が剥ける。焼けた毛と血の鉄が混じった臭いに、腐りかけた甘さが重なった。息を吸うだけで喉が痛い。


「――来るぞ!」


右治衛の声が、霧を裂いた。


皆が半歩退く。けれど桜は、もう動いていた。


右治衛の横をすり抜けると、肩が軽く引かれた。止めるための手。守るための温度。

その手の温度だけを振り切る。


手の中の刃は短い。短いぶん、近づかなければならない。

近づけば、噛まれる。裂かれる。爪が喉を探る。


怖い。

それでも、迷いはなかった。


犬は前のめりに倒れ込むように首を突き出し、空っぽの眼で桜を追う。前脚が絡まり、爪が石を引っかく音が遅れて来る。


桜は息を止めた。


喉元へ。

一息で。


ずぶり。


刃が肉に吸われる。刃先が骨に当たり、そこで止まる。ねっとりとした抵抗が指に絡みつく。桜は歯を食いしばって、引き抜いた。指先にぬるさが残る。


犬の体が、ぶるりと震えた。

空っぽの眼が、もう一度だけ揺れて――それきり、崩れ落ちる。


音もなく。


沈黙が、遅れて広がった。


右治衛の傍の女が、桜を見た。目を逸らせない目だった。恐れと、畏れが、同じところに混ざっている。


「……どうして……わかったの……?」


桜は自分の胸を押さえた。

襦袢の下が、まだ熱い。昨夜より、輪郭がはっきりしている気がする。淡いはずの形が、朝の光の中で、隠れたまま脈打っている。


「……ここが……」


言い切る前に、言葉が勝手に形になった。


「……教えるんです……」


言ってしまったあとで、背筋が冷えた。

――今のは、誰の声だ。


その日からだった。


桜は“違い”を見分け始めた。

動くものと、本当に終わったもの。

近づく気配。隠れている影。

夜になる前に、胸が疼く方向。


誰にも教わっていない。教えられなかった。

ただ、知ってしまう。


右治衛は何も言わなかった。

けれど桜の立ち位置が変わった。守る側の背中に、いつの間にか並ぶようになっていた。


その夜。焚き火のそばで、桜は一睡もできなかった。


目を閉じると、思い出す。

肉に沈む刃。指に残るぬるさ。崩れる重さ。


そして不思議と、嫌悪より先に来るものがあった。


桜は、自分が変わり始めていることを、まだ認めていない。


だが――


守られるために生き延びた娘は、いつしか守るために斬る者へと歩み出していた。

それが、母の不在と無縁ではないことを――桜はまだ、知らない。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

次話もお付き合いいただければ幸いです。

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