脈の向く先
※史実をもとにした創作作品です。
実在の人物・出来事とは一部異なります。
夜が明ける頃、胸の奥に残っていた熱は引かず、代わりに――襦袢の下の痣だけが、鈍く脈を打っていた。
触れるな。
そんな言葉が、骨の奥に沈んでいる。
いつ、誰に言われたのか。
思い出そうとすると輪郭だけが霧みたいにほどけてしまうのに、身体だけは覚えている。指先が、そこへ行くのを拒む。
桜は、その意味をまだ知らない。――けれど、もう身体が先に覚えてしまっていた。
⸻
桜は、違いを見てしまった。
夜明けは、あまりにも静かに訪れた。
燃え残った町に白い霧が流れ込み、血と灰の匂いを薄めていく。
だが、消えないものがあった。
桜の目に映る景色だけが、他の者と――違っていた。
倒れた影の輪郭が、霧の向こうで、わずかに“浮く”。
死んだものは沈む。終わったものは、ただ冷える。
けれど、沈みきらないものがある。
胸元が、じくりと疼いた。
痛みが、方向を持っている。
針で突かれたみたいに、点で鳴る。
――来る。
ここで、何かが。
⸻
「……動くな」
右治衛が、低く言った。
崩れた長屋の陰。
倒れた犬の死骸のそば。
毛は灰を吸って固まり、腹は裂けたまま乾いている。
血は黒く、縁に残った露だけが鈍く滲んでいた。
蝿が一匹、宙で止まり、ふらりと落ちかけ――霧の中へ逃げるように消えた。
右治衛の目には、ただの死体だ。
腹を裂かれ、捨てられた犬の屍。
それだけのはずなのに。
桜は、一歩も動けなかった。
嫌な予感が、背骨を撫でる。
喉が、ひくりと鳴った。
「……親方さま……」
声が、自分でも驚くほど掠れていた。
「それ……まだ、死んでいません」
⸻
一瞬、空気が止まった。
「……何だと?」
右治衛が目を凝らす。
半歩、距離を取る。息を吐く。
吐ききれないものが、喉に引っかかったまま。
桜には、わかった。
昨夜刺した“それ”と、同じだ。
生きてもいない。死んでもいない。
ただ、空っぽの皮が残っていて――
その“空き”に、何かが戻ろうとしている。
霧の中で、犬の体の“内側”だけが、薄く揺れて見えた。
空っぽのはずの腹の奥で、別の何かが、遅れて脈打つみたいに。
胸元が、もう一度、疼いた。
痛みが、はっきり「急げ」と言う。
⸻
「……下がれ」
右治衛は、慎重に距離を取った。
折れた梁のかけらを拾い、長い棒にする。
棒の先が、わずかに震えた。手の力が、強く握り直される。
桜は息を止めた。
棒の先が、毛を押し、肉を押し――
乾いた腹の皮が、ぐにゃりと沈む。
次の瞬間――
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
次話もお付き合いいただければ幸いです。




