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血の側へ

※史実をもとにした創作作品です。

実在の人物・出来事とは一部異なります。

影が、闇の濃いところから、じわりと滲むように現れた。


それは、人の形をしていた。

けれど――“人の重さ”だけが抜け落ちている。


肩が落ちる角度が、どこかひとつずつ合っていない。

関節の向きが、ほんの少しずつずれている。

それでも、こちらへ来る。

地を擦る音が、遅れて追いつく。


顔の半分が剥がれ、歯がむき出しだった。

目は焦点を失いながら、何かを“探す”ように揺れている。

喉の奥で、くぐもった呼気が鳴った。


「……あ……ぁ……」


声の名残りが、濁った呻きへ崩れていく。


桜の喉が引き攣った。

息が、詰まる。

足が、動かない。



右治衛が、桜の前に立った。

刀を抜く。


しかし、刃先が、わずかに止まった。


斬れば、死者を斬ることになる。

穢れを招く。祟りを呼ぶ。

骨の奥に染みついた因習が、手首を縛った。


――その、一瞬の迷い。


それが、致命的だった。


影は、倒れかけた体のまま、あり得ない角度で“伸びた”。

爪が伸び、指が喉元を探る。

覆い被さるように、距離を詰める。


「危ない!!」


悲鳴が、闇を裂いた。



――血が、舞った。


だが、斬ったのは右治衛ではない。


桜だった。



火元の混乱で誰かが落としたのだろう。

折れた小刀が、足元に転がっていた。


どこで拾ったのか、覚えていない。

ただ――身体が、勝手に動いた。


突き出した。

胸元へ。


刃が、肉に沈む。

ねっとりとした抵抗が、指にまとわりつく。


影が、驚いたように桜を見た。

焦点のない目が、ほんの一瞬だけ“戻った”ように見えた。


そして――崩れ落ちた。



静寂。


桜の手は、血で染まっていた。

震えが止まらない。


「……わたし……」


声が掠れる。


右治衛が、すぐに抱き寄せた。

その腕も、震えていた。


「違う。……お前は、生き残った」



だが――桜は、知ってしまった。


生きるためには、手を汚さねばならない夜があるということを。

それは舞台の上では、決して学べぬ真実だった。



夜が明ける頃、彼女は気づく。


胸元――襦袢の下に隠していた、桜の形の痣が疼いた。

母が「触れるな」と言った場所だ。

触れれば、何かが起きる、と。


「……母上……」


誰にも届かぬ声で、桜は呟いた。


守られた命が、今度は――誰かを傷つけた。

だが、それでも――生きている。



炎の向こうで、江戸はまだ燃えている。


そして桜はもう、

“守られるだけの娘”ではなかった。


この夜を境に――

彼女の運命は、確かに、血の側へと踏み出したのだった。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

次話もお付き合いいただければ幸いです。

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