炎の外で
※史実をもとにした創作作品です。
実在の人物・出来事とは一部異なります。
凍った背筋の奥で、桜の指が袖を掴んだ感触だけが、まだ掌に残っていた。
――その同じ夜。
江戸の“内側”では、言葉ひとつで町が切り捨てられた。
畳に落ちた命令は、火の粉のように消えず、広がる。
だが“外側”では。
その言葉の届かない場所で、切り捨てられた者たちは、ただ息をしていた。
息をするだけで喉に煤が絡む。胸の奥が焼けるような夜の中で。
⸻
炎の外で、桜は初めて血を見る。
燃え残った町は、死臭で満ちていた。
焦げた木。
溶けた油。
そして――鉄と、腐り始めた肉の匂い。
風が吹くたび、焼け跡の灰が舞い、口の中がざらつく。
息を吸うたび、鼻の奥が痛む。
涙が出そうになるのに、泣けない。泣いた瞬間に、崩れてしまう気がした。
桜は右治衛の背にしがみついたまま、一言も発せずに歩いていた。
視界の端に、倒れたまま動かない影がある。
赤黒いものが石畳の溝に溜まり、夜露と混じってぬめり光っていた。
泣くことすら、できなかった。
⸻
一座は、もう“一座”ではなかった。
三味線弾きは、斬られた。
あの湿った咳と、喉を掻きむしる音――それが最後に聞いた“人の声”だった。
若い踊り子は、混乱の中で姿を消した。
袖の色も、髪飾りの光も、炎と人波に溶けて、もう思い出せない。
名を呼んでも、返事はない。
生きているのか、死んでいるのか――見てしまう勇気など、残っていなかった。
知ってしまったら、もう戻れない。
自分の中の何かが、完全に折れてしまう。
「……ここで、休む」
右治衛が言った。声が掠れている。
背中越しに伝わる呼吸が、浅い。
焼け落ちた寺の裏。
半壊した蔵。
壁の黒焦げが夜の闇と同じ色をしていて、どこまでが影で、どこからが焼け跡なのか分からない。
夜露が冷たく肌を刺し、桜の指先が遅れて痺れた。
灰の匂いが、喉の奥まで入り込む。
桜は、初めて震えた。
寒さではない。
恐怖だった。
⸻
その時――
音がした。
ずるり。
ずるり。
足を引きずる、湿った音。
土ではなく、肉が擦れるような音だった。
右治衛の妻が息を呑む。
桜の名も呼べず、抱えた荷が、わずかに鳴った。
「……来る」
その一言が落ちた瞬間、
闇の奥に、そこだけ気配の抜け落ちた“空き”が生まれた。
音が薄くなり、空気が重くなる。
喉の奥から、濁った湿りの唸りが漏れた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
次話もお付き合いいただければ幸いです。




