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口封じ

※史実をもとにした創作作品です。

実在の人物・出来事とは一部異なります。

凍った背筋の奥で、桜の指が袖を掴んだ感触だけが、まだほどけなかった。


家宣は息を吸う。吸い込んだはずの空気は冷たいのに、喉の奥にはまだ焦げた甘さが残っている。畳の匂い、香の匂い、磨かれた板の匂い――整えられた屋敷の匂いがいくら重なっても、昨夜の煙は消えない。消えないものほど、こういう場でよく浮く。


座敷の誰も、すぐには口を開かなかった。沈黙は迷いの時間ではない。決めるための沈黙だった。扇子の骨が、わずかに鳴る。あれが刃を納める音に似て聞こえるのは、家宣の耳がまだ火事場のままだからだ。


やがて、低く湿らない声が落ちた。


「生類憐みの令のもとで――」


年嵩の老中が、言葉を選ぶというより、すでに決めた筋をなぞるように言った。


「犬を媒介に人が屍と化すなど、民が知れば、江戸は一夜で滅ぶ」


“滅ぶ”の言い方が淡々としていた。火の勢いでも、人の悲鳴でもない。もっと別の、冷えた力で町を潰せる者の声音だ。家宣は膝を突いたまま奥歯を噛む。歯の裏に血の味がした気がした。


別の者が、続ける。


「犬を守れと命じた将軍家が、結果として人を殺した――そのような解釈、断じて許されぬ」


“許されぬ”と言った瞬間、座敷の空気がさらに締まった。許されないのは異変そのものではない。異変が、将軍家へ跳ね返ってくることだ。家宣は、その理屈が分かってしまう自分を憎んだ。分かるほどに、口が重くなる。


「……では、いかがなさるおつもりで?」


声が出るまでに、ひと呼吸かかった。自分の声が、この場で異物みたいに浮く。感情が混じる声は、この座敷では汚れになる。


老中は、間を置かずに言い放った。


「切り捨てる」


その言葉は、火の音より冷たく、家宣の背筋に何か走るものがある。そして、先ほど凍りついたはずの背が、さらに凍り直す。


「感染の疑いがある町は封鎖」


「生きていようが、噛まれていようが、外へは出さぬ」


「屍は焼け」


「証言者は――口を封ぜよ」


一つ一つが命令ではなく、決算のように並べられていく。勘定の帳面に人の命が記されるみたいに、淡く、正確に……


家宣は、言葉の端が畳へ落ちるたび、昨夜の火の粉が落ちる感覚を思い出した。落ちた火は湿りを吸って消えない。今の言葉も同じだ。消えずに、広がる。


その瞬間、脳裏に桜の顔が浮かんだ。


炎の照り返しに濡れた頬。

煙を吸って痛む目。

掴んだ袖の力。

あの輪の中の、逃げ場のない匂い。

取り残された者たちの気配。


――だが、桜ひとりの話ではない。


家宣の脳裏に、橋詰の人だかりが重なる。押し返しの渦。肩と肩が噛み合い、袖が擦れ、息が交じり合った場所。あの場で「触れなかった」と言い切れる者は、いない。


そして――火元にいた者の中に、興行の者どもが混じっていたはずだ。


あれは数がまとまっている。散れば、町の外へも、人の間へも、ひとかたまりのまま“移り”を運びかねない。


家宣は額を畳に落としたまま、声を絞った。


「……火元にいた者の中に、興行の者どもが混じっていたはずです。あれは数がまとまっております。――いかが致される」


問いにしたのに、懇願の形をしていた。情ではない、と言い聞かせるほど、喉の奥が固くなる。


老中は、一瞬だけ目を伏せた。


その“ほんの一瞬”が、家宣には恐ろしく長かった。目を伏せた理由が、言葉より先に伝わってしまうからだ。


「……封鎖の内におれば、同じこと」


それ以上は語られなかった。語らないこと自体が答えだった。家宣の喉が鳴る。飲み込む唾が、黒く感じた。


「家宣殿」


名を呼ばれ、家宣は顔を上げる。顔を上げた瞬間、上座の視線が刃物のように刺さった。情があるかどうかを見ている目だ。使えるかどうかを測る目だ。


「そなたに、役目を与える」


差し出されたのは、一通の文だった。封蝋に、将軍家の印。赤いはずの封が、この座敷では黒く見えた。赤は、もう昨夜の炎で使い尽くした色のように感じる。


「事態収拾のため、表に出る者を斬れ」


家宣の指が震えた。文を受け取るだけで、手が汚れる気がした。だが、受け取らねばもっと汚れる。断れば、次は“口を封ぜよ”が自分に回る。


「……人を……?」


老中の声が重ならない。重ならないまま、答えだけが落ちた。


「人でなくなる前に、だ」


救いの形をした非情だった。家宣は息を吐く。吐いた息が、畳の上で行き場をなくす。ここでは、煙も嘆きも許されない。


「そなたは、情を持ちすぎる」


老中は家宣を真っ直ぐ見据えた。眼が冷たいのではない。冷たさを“正しさ”として扱える眼だった。


「だが――それゆえ、役に立つ」


褒め言葉のように言うのが、いっそう残酷だった。


「迷えば、その情ごと、斬り捨てよ」


斬るのは相手ではない。自分の中の“躊躇う部分”だ。家宣は、その言葉が刃のように自分の内側へ向いているのを感じた。



夜更け。


家宣は屋敷の廊下を歩きながら、拳を壁に叩きつけた。乾いた音がしたのに、痛みは遅れて来る。痛みより先に、胸の奥が熱い。


「……くそ……っ」


武家とは何か。

忠義とは何か。

守るために、どれだけの命を踏み潰せばいい。

踏み潰した命の中に、桜が含まれていないと、誰が言える。


庭に出ると、月が血のように赤かった。


城下の火の赤が、ここまで回り込んでいるのか。あるいは、自分の目の奥がまだ燃えているのか。家宣は、答えを探すのをやめた。探せば探すほど、戻れない場所が増える。


その下で、家宣は初めて声を殺して泣いた。泣くことが許されない場所で、泣くしかない夜だった。


桜に向けて、誓うように。


「……必ず、迎えに行く」


だが同時に、悟っていた。


この役目を受けた瞬間から――自分は、もう元の場所へは戻れない。戻る場所が残っていたとしても、自分がそこへ戻れる形ではない。


こうして。


桜は、炎の中へ。

家宣は、血の中へ。


同じ夜、同じ江戸で――二人は、正反対の地獄へと歩み出していた。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

次話もお付き合いいただければ幸いです。

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