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閉ざされた内側

“移り”は、まだ人の間を歩いている。

そう思った瞬間、家宣の喉の奥にも、黒い痰めいたものがひとつ落ちた気がした。煙を吸い込んだせいだと打ち消しても、息を吐くたびに、昨夜の赤い熱と、血の匂いと、叫びの途中で獣へ変わった声が、胸の底から戻ってくる。


家宣はそれを噛み殺すように、炎の匂いを背に、江戸城下を駆けた。

まだ耳の奥で、火がぱちぱちと息をしている。さっきまで、あの場にいたはずなのに――火と煙と人の声が、すでに遠い。


走るたび、草履の裏に泥が吸いつく。泥には水と汗と血が混じっていて、足が離れるたび、何かが剥がれる音がした。剥がれるのは土ではない。昨夜の景色だ。桜の手。袖。炎に切られた視界。伸ばした指先の空虚。


それでも走る。走らされている、と言った方が正しい。武家の脚は、心より先に命令に従う。


通行手形を示す。灯りの下で墨の字が揺れ、役人の目がそれをなぞる。ひと息の間に、背後でまた誰かが叫んだ。叫びは言葉で終わらず、獣の音へ変わる。城下の夜は、もう人の喉だけでは鳴っていなかった。


関所を抜ける。槍の穂先が提灯に鈍く光り、道の両端が急に狭く感じた。閉ざされた橋の槍を思い出して、家宣は奥歯を噛む。同じだ。ここでも、戻ることは許されない。


ようやく辿り着いたのは――将軍家に連なる者だけが通される、奥深い屋敷だった。


門をくぐった瞬間、空気が変わる。湿った煙の匂いが薄れ、代わりに、磨かれた板と香の気配が鼻へ入る。火の赤がここまで届いていないのが、かえって不気味だった。外では町が燃えているのに、ここでは灯りが“整って”いる。


廊下を進む。障子の白は、夜に対して清すぎた。足音が吸われる。吸われるたび、城下の怒号が遠のき、代わりに自分の呼吸だけが大きくなる。呼吸の中に、まだ焦げの匂いが残っている。残っているのは匂いだけではない。喉の奥に、昨夜の黒い唾が貼りついたままだ。


襖が閉じられる。


外の喧騒は、ここには届かない。まるで――江戸の惨状が、最初から無かったかのように。

それが、いちばん怖かった。燃えているのは城下ではない。燃えているのは“外側”だ、と、この屋敷は言っている。


座敷へ通される。畳の目が真っ直ぐで、踏み込むのが躊躇われるほど整っている。だが、家宣の足袋は泥で汚れていた。その汚れが、この場では罪のように浮く。


「状況を述べよ」


上座に座る老中の声は、氷のように冷たかった。冷たいのに、震えがない。火の前で震えない足取りと同じで、崩れない者の声だ。


家宣は膝を突く。額を下げ、背を折り、畳へ視線を落とす。

その畳の匂いの下から、昨夜の土の冷えが蘇りそうで、まぶたに力が入った。


一言一句、嘘なく語った。


噛みつき。屍の復活。犬から人へ広がる異変。斬っても死なぬ怪物。


言葉にするほど、息が重くなる。言葉にすれば“形”になる。形になれば、もう戻れない。――桜が言葉にしなかった“移り”の怖さを、家宣は今さら理解する。


語るほどに、空気が重く沈む。畳の上の静けさが、底へ底へと落ちていく。誰かが扇子を畳む音がして、それが刃物を仕舞う音のように聞こえた。


「……疫病ではないな」


低い声が落ちた。続いて、別の声。


「妖か?」


その問いは、怪異を呼ぶためではなく、責を逃がすために投げられた石のようだった。妖なら、仕方がない。疫病なら、天のせいにできる。だが――


「いや……人の業だ」


誰かが、そう呟いた。呟きのくせに、座敷の隅々まで届く。届いてしまうほど、この部屋は静かだ。


沈黙ののち、最も年嵩の老中が口を開いた。


「――これは、世に知られてはならぬ」


家宣の背筋が、凍りついた。


凍った背筋の奥で、桜の指が袖を掴んだ感触だけが、まだほどけなかった。

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