表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
55/62

引き裂かれる夜

※史実をもとにした創作作品です。

実在の人物・出来事とは一部異なります。

「……置いていけ」


右治衛が、歯を食いしばって言った。

唇の端が震えているのに、声だけは折れない。炎の照り返しで顔色が抜け、額の汗が光った。


「噛まれた者は……もう……戻らない……」


言い切る前に、輪のどこかで息がつまる音がした。

嗚咽か、喉の奥がごぼりと鳴る湿った息か――判別がつかない。桜の耳には、さっき三味線弾きが喉を掻きむしった引っかかりが、まだ貼りついていて離れない。


桜は首を振った。


「いや……! みんな……っ!」


喉が先に震え、声が遅れて出る。涙は出ない。出したら、終わったと認めることになる気がした。


右治衛の妻が桜の肩を抱き寄せ、体ごと向きを変えた。

抱くというより、押し伏せるように、視界を塞ぐ。


「……見るんじゃない」


囁きは柔らかいのに、命令だった。

恐いものから隠す声ではない。恐いものが来る方角を、見せない声だ。


その瞬間、武家の指図で、町に火が放たれた。

風が変わる。


焦げの匂いが濃くなり、鼻の奥がつんと痛んだ。夜気が冷たいほど、熱の匂いだけがくっきりする。


桶を抱えた者が走り、桶の縁が肩を打って乾いた音がする。水がこぼれ、土に吸われ、吸われた土がすぐぬるむ。踏まれた泥が足裏に張りつき、逃げ足を奪う。


火の粉がひとつ、ふたつ。闇を斜めに渡って落ちる。

落ちた火の粉はすぐ消えない。湿りを吸って芯を持ったみたいに、じっと燃える。


油を吸った布が、ぱちっと爆ぜた。

つづけて木が、乾いた悲鳴を上げて割れる。

そして、その割れ目から覗いた熱が、すぐ顔を出す。


芝居小屋の方角が急に明るくなり、炎が夜を押し広げた。

舞台の幕が燃え、紙が一瞬で縮んで黒い花になる。柱の漆が熱で泣き、ぱちぱちと皮を剥く。あっという間に、町の一角が“夜そのもの”のように赤黒くなる。


これは助けるための火ではない。

止めるための火だ――そういう匂いがした。


煙が喉に絡み、目が痛む。泣けるほど痛いのに、涙は煙のせいにできない。胸の奥の痛みが、それより先にある。


煙の向こうで、影が蠢いていた。

歩く影。倒れる影。四つ這いの影。――そして立ち上がる影。


立ち上がり方だけで、もう人ではないとわかる。

それでも、元は人だったことも同時にわかる。だから怖い。


「町が……燃えてる……」


桜の呟きは、炎の音に吸われた。

この火が自分たちを呑まなければいい、とどこかで思ってしまう。けれど、言葉にしたら本当になりそうで、怖い。


そんな混乱を割って、提灯の列が押し入ってくる。

町人の提灯じゃない。持ち手が高く、揺れが少ない。歩幅がそろっている。


肩が当たった者が振り返り、相手を見て言葉を飲み込んだ。次々と人が下がり、一本の細い道が、家宣の前へ“空けられる”。


その先に、武家の使者が立っている。

視線は桜に触れず、家宣だけを捉える迷いのない目。


「申し渡します」


火の音より冷たい声。


「家宣様、直ちにお戻りください。将軍家に近い者として、この事態を見過ごすわけにはいきませぬ」


その言葉を耳にした瞬間、家宣の拳が震えた。怒りでも恐れでもない。両方を噛み砕く前の震えだった。


桜が、家宣の袖を掴む。布が指に食い込み、離れない。


「……行かないで」


自分でも驚くほど、声が細い。

置いていかれると思った瞬間だけ、身体が昔の癖を思い出す。幼い頃、右治衛の妻の袖を掴んだ――あの夜と同じ力だ。生き残るのはいつも、こういう力……


家宣は、掴まれた袖ごと桜を引き寄せ、そのまま抱きしめた。

火の熱の中で、その腕だけが冷たく確かだった。


「必ず、戻る」


だが、その言葉はこの夜には脆い。

炎の音に負けて、“必ず”という言葉が煙に薄くなる。そして、約束の輪郭がぼやけていく。


次の瞬間、太い声が飛ぶ。


「退け! 退け!」


誰かが桜の背を押し、別の誰かが家宣の腕を引く。流れが裂け、足元がほどける。ほどけた足元に火の粉が落ち、また別の火が移る。


別れは、叫びも涙も、用意されないまま起きた。


人波に押され、肩がぶつかり、肘が刺さる。熱い。

熱さが痛みに変わる前に、火の壁が視界を切った。


切られた視界の向こうで、家宣の影が一度だけ揺れる。

そして、もう見えない。


「……っ!」


伸ばした手は空を掴む。掴んだのは煙と火の粉と、知らない袖だけだった。指先が熱で痺れて、何かを掴んだ感覚が消える。消えた感覚だけが、胸の奥をひっかく。


遠くで獣の咆哮。

近くで人の断末魔。

どちらも同じ喉から出ているように聞こえ、区別がつかない。


右治衛が桜の腕を掴み、人波から引き剥がした。身体が揺れ、足が一拍遅れて地面を追う。


「見るな。前だけ見ろ」


右治衛は必死に、声が震えないよう噛みしめているだけだと、桜にはわかった。


桜は歯を食いしばって頷く。

頷きながら、背後で燃える町の匂いを吸ってしまう。自分たちの生が灰になる匂いだ。


息をするたび、胸の奥に焼けた熱が溜まっていく。

煙より長く残り、心臓の拍を重くする。


こうして江戸は閉ざされ、一座は壊れ、恋は引き裂かれた。


だが、まだ誰も知らない。

この別離が、再会よりもさらに残酷な運命を連れてくることを。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

次話もお付き合いいただければ幸いです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ