引き裂かれる夜
※史実をもとにした創作作品です。
実在の人物・出来事とは一部異なります。
「……置いていけ」
右治衛が、歯を食いしばって言った。
唇の端が震えているのに、声だけは折れない。炎の照り返しで顔色が抜け、額の汗が光った。
「噛まれた者は……もう……戻らない……」
言い切る前に、輪のどこかで息がつまる音がした。
嗚咽か、喉の奥がごぼりと鳴る湿った息か――判別がつかない。桜の耳には、さっき三味線弾きが喉を掻きむしった引っかかりが、まだ貼りついていて離れない。
桜は首を振った。
「いや……! みんな……っ!」
喉が先に震え、声が遅れて出る。涙は出ない。出したら、終わったと認めることになる気がした。
右治衛の妻が桜の肩を抱き寄せ、体ごと向きを変えた。
抱くというより、押し伏せるように、視界を塞ぐ。
「……見るんじゃない」
囁きは柔らかいのに、命令だった。
恐いものから隠す声ではない。恐いものが来る方角を、見せない声だ。
その瞬間、武家の指図で、町に火が放たれた。
風が変わる。
焦げの匂いが濃くなり、鼻の奥がつんと痛んだ。夜気が冷たいほど、熱の匂いだけがくっきりする。
桶を抱えた者が走り、桶の縁が肩を打って乾いた音がする。水がこぼれ、土に吸われ、吸われた土がすぐぬるむ。踏まれた泥が足裏に張りつき、逃げ足を奪う。
火の粉がひとつ、ふたつ。闇を斜めに渡って落ちる。
落ちた火の粉はすぐ消えない。湿りを吸って芯を持ったみたいに、じっと燃える。
油を吸った布が、ぱちっと爆ぜた。
つづけて木が、乾いた悲鳴を上げて割れる。
そして、その割れ目から覗いた熱が、すぐ顔を出す。
芝居小屋の方角が急に明るくなり、炎が夜を押し広げた。
舞台の幕が燃え、紙が一瞬で縮んで黒い花になる。柱の漆が熱で泣き、ぱちぱちと皮を剥く。あっという間に、町の一角が“夜そのもの”のように赤黒くなる。
これは助けるための火ではない。
止めるための火だ――そういう匂いがした。
煙が喉に絡み、目が痛む。泣けるほど痛いのに、涙は煙のせいにできない。胸の奥の痛みが、それより先にある。
煙の向こうで、影が蠢いていた。
歩く影。倒れる影。四つ這いの影。――そして立ち上がる影。
立ち上がり方だけで、もう人ではないとわかる。
それでも、元は人だったことも同時にわかる。だから怖い。
「町が……燃えてる……」
桜の呟きは、炎の音に吸われた。
この火が自分たちを呑まなければいい、とどこかで思ってしまう。けれど、言葉にしたら本当になりそうで、怖い。
そんな混乱を割って、提灯の列が押し入ってくる。
町人の提灯じゃない。持ち手が高く、揺れが少ない。歩幅がそろっている。
肩が当たった者が振り返り、相手を見て言葉を飲み込んだ。次々と人が下がり、一本の細い道が、家宣の前へ“空けられる”。
その先に、武家の使者が立っている。
視線は桜に触れず、家宣だけを捉える迷いのない目。
「申し渡します」
火の音より冷たい声。
「家宣様、直ちにお戻りください。将軍家に近い者として、この事態を見過ごすわけにはいきませぬ」
その言葉を耳にした瞬間、家宣の拳が震えた。怒りでも恐れでもない。両方を噛み砕く前の震えだった。
桜が、家宣の袖を掴む。布が指に食い込み、離れない。
「……行かないで」
自分でも驚くほど、声が細い。
置いていかれると思った瞬間だけ、身体が昔の癖を思い出す。幼い頃、右治衛の妻の袖を掴んだ――あの夜と同じ力だ。生き残るのはいつも、こういう力……
家宣は、掴まれた袖ごと桜を引き寄せ、そのまま抱きしめた。
火の熱の中で、その腕だけが冷たく確かだった。
「必ず、戻る」
だが、その言葉はこの夜には脆い。
炎の音に負けて、“必ず”という言葉が煙に薄くなる。そして、約束の輪郭がぼやけていく。
次の瞬間、太い声が飛ぶ。
「退け! 退け!」
誰かが桜の背を押し、別の誰かが家宣の腕を引く。流れが裂け、足元がほどける。ほどけた足元に火の粉が落ち、また別の火が移る。
別れは、叫びも涙も、用意されないまま起きた。
人波に押され、肩がぶつかり、肘が刺さる。熱い。
熱さが痛みに変わる前に、火の壁が視界を切った。
切られた視界の向こうで、家宣の影が一度だけ揺れる。
そして、もう見えない。
「……っ!」
伸ばした手は空を掴む。掴んだのは煙と火の粉と、知らない袖だけだった。指先が熱で痺れて、何かを掴んだ感覚が消える。消えた感覚だけが、胸の奥をひっかく。
遠くで獣の咆哮。
近くで人の断末魔。
どちらも同じ喉から出ているように聞こえ、区別がつかない。
右治衛が桜の腕を掴み、人波から引き剥がした。身体が揺れ、足が一拍遅れて地面を追う。
「見るな。前だけ見ろ」
右治衛は必死に、声が震えないよう噛みしめているだけだと、桜にはわかった。
桜は歯を食いしばって頷く。
頷きながら、背後で燃える町の匂いを吸ってしまう。自分たちの生が灰になる匂いだ。
息をするたび、胸の奥に焼けた熱が溜まっていく。
煙より長く残り、心臓の拍を重くする。
こうして江戸は閉ざされ、一座は壊れ、恋は引き裂かれた。
だが、まだ誰も知らない。
この別離が、再会よりもさらに残酷な運命を連れてくることを。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
次話もお付き合いいただければ幸いです。




