橋が閉ざされた夜
※史実をもとにした創作作品です。
実在の人物・出来事とは一部異なります。
「……あれも、元は人間だ」
橋の下を裂くように走った、黒い背。濡れた髪。水を割る、速すぎる音。
桜は、声を失った。
喉の奥で言葉が凍りつき、唾すら飲み込めない。
あれが何だったのか――名をつける前に、遠くで拍子木が一つ、闇を叩いた。音は遅れて胸に落ち、腹の底が冷える。
橋は閉ざされた。
槍が横一文字に揃い、向こう岸がこちらを拒んだ。御役所が、この橋のこちら側を切り捨てる。
槍の穂先が、提灯の赤い光に並んで鈍く光る。
前方の者が胸を突かれ、息を潰されるように後ろへよろめいた。
怒号も泣き声も、ぴたりと途切れる。人だかり全体が息を呑み、硬直した。
一瞬、世界が押しつぶされたように静まる。
次の瞬間、後ろからの圧が割れ、群れは逆流するように押し返された。
たちまち、人の塊が形を失ってうねる。
泣き声、怒号、誰かを呼ぶ声――途切れたはずのそれらが、今度は渦になって戻ってくる。
提灯の火は風に削られ、赤い光だけが頬や額を薄くなぞっては、すぐ黒い影へ落ちた。
どこを向いても出口はない。進めば槍。戻ろうとすれば槍。逃げ場が消えた場所で、恐怖だけが増えていく。
橋のたもとで、群れがいちど潰れ、また盛り上がった。止まったぶんだけ反動が返り、肩がぶつかる。肘が刺さり、胸の奥まで詰まる。
押し返された拍子に、裏方の荷がほどけた。破れた風呂敷の口から小道具がこぼれ、漆の扇が泥に落ちる。紙の面は水を吸い、みるみる重くなった。
赤い紐が足首に絡み、桜は反射でほどこうとして――指が止まる。
触れたくない。
触れれば、こちらにも何かが移る気がした。
人の流れに押されて、桜は半歩よろめく。背中を別の圧が押し、群れは橋のたもとから外へ、外へと吐き出されていった。
誰もが逃げたい。だが、逃げたのではない。槍に返され、流れに吐き出されただけだ。
息は白くならない季節なのに、吐く気息がやけに重い。胸の奥が濡れた布で塞がれたみたいに詰まり、汗と土と、血に似た生臭さが夜気の冷えと混じって鼻につく。
ここで、ようやく一座の輪が見えた。橋の混乱から少し外れた裏手の空き地に、皆が固まり、提灯の灯りの下で互いの顔だけを確かめている。
立っているのに、もう崩れている輪だった。
その端で、年嵩の三味線弾きが、ふらりとよろめいた。
そして桜は、その瞬間に思い出してしまう。
橋のたもと。押し返しの渦の中。
三味線弾きの肩へ、誰かが縋りつくようにぶつかった。助けを求める手――に見えた。
だが、襟元へ滑り込んだ影が、布をこじ開ける。
ごく短い布ずれ。
つづいて、湿った気配。
皮膚の内側が、ひやりと引かれて――遅れて熱がにじむ。
三味線弾きは、今、その熱を抱えたまま立っている。
「……ちと、噛まれただけだ」
笑おうとして口の端がひきつる。袖の下、半月の歯形。滲みは赤いままではいない。灯りの下で、黒さを含みはじめていた。
「見せろ」
誰かが言いかけたが、言葉は途中で折れた。近づきたいのに足が出ない。
橋の下を走った“それ”が、目の奥に貼りついて離れなかった。
あれから半刻ほど。人の流れに揉まれているうちに、痛みだけが遅れて追いつき、呼吸が浅くなる。
三味線弾きは肩で息をし、額に汗を浮かべたままだった。だがその汗の粒は、灯りに照らされても鈍く淀み、光を返さない。
黒ずんでいる、というより――淀んだ黒みを含んでいる。
皮膚の下から、沈んだものがじわりと浮いてくる。
そう見えるだけで、見ている側の背筋まで撫でられる。
次の瞬間――
彼は、喉を掻きむしった。
指が首筋に食い込み、爪が皮を裂く。かすれた息が漏れ、白目がぐるりと剥き出しになった。
そして、そのまま土の上へ倒れ込む。身体が一度だけ跳ね、つづけて硬く引きつった。
「……っ!」
右治衛の声が裏返る。
「下がれ!!」
命令は早かった。だが、遅かった。
倒れたはずの三味線弾きが、すっと起き上がる。起き上がり方が、人のそれではない。
痛みを避けるでもなく、呼吸を整えるでもなく、ただ――“噛む”ための形だけが先に立っている。
口が開き、歯が剥き出しになる。唾液が糸を引いた。透明ではなく、濁った黒い色。
それが唇の端から垂れ、土に落ちても濡れず、黒みだけを置いていく。
次の瞬間、仲間へ飛びかかった。
血。
悲鳴。
混乱。
肩を掴まれた者が引き倒され、腕が振り回され、誰かの足がもつれて倒れる。逃げようとする動きに逆方向から別の身体がぶつかり、輪が崩れた。
提灯の火が揺れ、影が跳ねる。犬の遠吠えがどこかで応え、その音に合わせるように闇がじわりと寄ってくる気がした。
家宣が、前に出る。
ためらいは一息ぶんだけ。刃が抜ける音が湿った夜気を裂いた。
一閃。
首が落ちる。
それで終わった――はずだった。
胴が動いたのではない。
足元の影が、まだ前へ伸びていた。
断面から滴る黒い血が提灯の光を吸う。
土に落ちた血が影を濃く伸ばし、その影の指が土を掻く。指先が「噛む」形を探す。
提灯の灯りが揺れるたび、その影だけが一拍遅れて蠢いた。
血は赤にならず、ただ黒みを増やしていく。
やがて、糸が切れたように崩れ落ちた。
静けさが一瞬だけ落ちる。
その静けさの底で、誰かの嗚咽が震え、提灯の火が小さく揺れた。川の匂いと、血の匂いと、土の匂いが混じり、夜気が重く喉に絡みつく。
桜は、息ができない。
目の前で起きたことが理解の形になる前に、胸の奥へ深く刺さってしまった。
橋の下の“それ”と、今の三味線弾きが、一本の線で繋がる。
――移り。
口にしたら、もっと近づく。
だから桜は、ただ見た。
そして、忘れない。
桜は、その光景を、一生忘れない。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
次話もお付き合いいただければ幸いです。




