畳に落ちた影
※史実をもとにした創作作品です。
実在の人物・出来事とは一部異なります。
客席の波が押し返し、誰かの肩がぶつかった。
灯籠の光が一度、ぐらりと揺れる。
――ここは座敷ではない。
芝居小屋の桟敷まで人が詰まり、息と熱で畳が湿るほどだった。
その揺れの陰で、一人の男の首筋へ影が滑り込んだ。
気づいたときには、もう遅い。
息を吸うより先に、冷たい何かが皮膚を撫で、襟元の絹が、ひとすじ引かれる。
次の瞬間――
吐息が襟の隙間へ落ちた。
近すぎて産毛が逆立つ。
つづけて硬い圧が押し当てられ、皮膚の内側で鈍い痛みが小さく芽を出す。
ごく短い布ずれ。
その直後、皮膚より先に、もっと薄い境目が裂け、湿った紙を破くような、いやな感触だけが走る。
音はほとんど立たない。
歯が離れたあと、一筋の熱が肌へ滲んだ。
赤ではない。赤になる前に闇が混じり、墨を溶かした水のような色が、じわりと襟元へ広がっていく。
男は息を呑み、声にならない声を喉の奥へ押し込んだ。
痛みより早く背骨を舐めるような冷えが走り、身体の芯が一瞬で空になる。
そして――
男は、糸の切れた人形のように崩れ落ちた。
膝が折れ、首がねじれたまま、肩が畳へ叩きつけられ、鈍い響きが、場の底を打った。
男の喉奥から、ひゅう……と湿った息が漏れる。
悲鳴にはならない。
空気だけが擦れて抜けていった。
だが次の瞬間、喉が引き裂かれるような絶叫が爆ぜる。
背中が弓なりに反り、脊椎が軋んだ。
指先が畳を抉り、爪が割れる。
噴くのは血ではなく、黒い滲み――
墨のような穢れが畳へ吸い込まれ、じわりと広がっていった。
一本、また一本と畳の筋が暗さを呑み、灯りまで沈んで見えた。
だが、それだけで終わるはずがない。
痙攣が追い打ちのように来た。
身体が跳ね上がり、落ちてはまた跳ね上がる。――何度も、何度も。
畳が震え、床板が軋み、足裏へ不自然な揺れが突き上げた。
やがて、ゆっくりと男の顔が持ち上がる。
瞳孔は限界まで開ききり、白目に濁った油の光が沈んでいる。ついさっきまで盃を傾け、舞台の笑いに声を上げていた目ではない。別の何かが奥から這い上がり、瞳の底に居座っている――そう見えた。
誰もが、それを見た。
誰も、声に出せない。
けれど胸の奥へ、同じ二文字が音もなく落ちる。
――感染。
その言葉が浮かんだ瞬間、場の誰もが同時に“違う”と悟った。
これは病の名ではない。
口にすれば、名を与えたぶんだけ近づく。そんな古い理屈が、舌の根を縫い止める。
噛み傷から入ったのは毒でも熱でもない。
影のような穢れ――“移り”。
そう思い当たった途端、合図でも受けたかのように、奥の席でまた一人崩れ落ちる。今度は女だ。
着物の裾が乱れ、足が痙攣しながら畳を叩き、喉の奥から掠れた声がこぼれた。
そして悲鳴が裂ける。
悲鳴はひとつで終わらない。折り重なり、押しつぶし合う。その上から、別種の叫びが噛みつくように覆いかぶさった。
犬の吠え声。
高く鋭い声が夜を切り裂き、途中で濁って、肉が潰れるような湿った音へ変わる。喉の奥で何かが破れる気配がして、黒い涎が糸を引いて、だらりと垂れた。
それは液ではない。影の線に近い。畳へ落ちても濡れず、暗さだけを残していく。
濁った吠え声に合わせるように、空気がぐらりと傾き、提灯の火が小さく息を呑んだ。
灯籠が揺れ、炎が歪む。
影が跳ねて伸び、壁を這い、畳の上では人影が絡んで暴れ続けた。
「撤け!」
家宣の声が、刃のように空気を断ち切った。
次の瞬間、桜の手首が強く掴まれている。熱い……。
血と焦げと吐瀉物の臭いが充満する中で、その体温だけが確かに生きている証になり、桜の感覚を現実へ縫い留めた。
家宣と桜は、人波を掻き分け、押し潰されながら走る。
背後では悲鳴が重なり、咆哮が絡み、骨の砕ける湿った音と、噛みちぎられる音が止まらない。倒れた者の上を誰かが踏み越え、踏み越えたその者もまた崩れ落ち、同じように痙攣し、同じ目をした。
路地へ出たとき、町はすでにざわめき始めている。
戸を閉める音。
裸足で走る足音。
泣き叫ぶ幼子の声。
そこへ犬の吠え声が、あちこちで狂ったように響き合った。
生類憐みの令。
刃を向けることさえ躊躇われるはずのものが、今夜は牙を剥いている。
斬れない、近づけない――その躊躇が、道を開けてしまう。
口元から垂れる黒い糸が、畳や石の上に引かれ、踏まれて伸び、別の足裏へ絡みついた。それは明らかに、“移り”を運ぶ。
――うつし口が、開いている。
「江戸が……死んでいく」
桜の喉から、掠れた声がこぼれた。
家宣は答えない。答えはもう、町のあちこちで形を持ちはじめ、暗がりの隙間から、ぬめる気配で寄ってきている。
橋へ向かう人の流れは、濁流のように膨れ上がった。
「外へ出せ!」
「封じ込められるぞ!」
怒号が飛び交い、肩と肘と背中がぶつかり合い、焦りだけが熱になる。
まだ、正式な封鎖の触れは出ていない。
それでも誰もが本能で悟る。
――逃げ場は、もう長くは保たない。
夜が深く落ち、提灯の灯りが血のように赤く揺れていた。
一座の者たちも顔を見合わせる。
「……出るぞ」
右治衛が、低く、しかし決然と言った。
江戸を離れる決断は、覚悟というより流されるようなものだった。
だが橋へ辿り着いたとき、様子が明らかにおかしい。
同心の数が、さっきより明らかに増えている。槍の穂先だけが提灯の灯りを拾い、冷たく光っていた。
関所の前は怒号と押し合いで崩れ、列は列の形を失っている。人の塊がうねって橋へなだれ込み、橋桁がみしりと鳴った。その震えが、足の裏にまで突き上げてくる。
遠くで、また獣のような声が上がる。人か犬か、もはや区別などつかない。
桜は家宣の袖を強く掴んだ。
幼い頃、離されるまいと必死に掴んだ、あのときと同じ力で。
「……置いていかない?」
家宣は一瞬、目を伏せ、そしてはっきりと言う。
「離さない」
その声は確かに強い。
けれど夜はもっと強く、闇はゆっくりと、しかし確実に、江戸のすべてを飲み込もうとしていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
次話もお付き合いいただければ幸いです。




