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半拍の崩壊

※史実をもとにした創作作品です。

実在の人物・出来事とは一部異なります。

夕刻。

空はまだ青みを残しているのに、すでに光が鈍い。

まるで墨を薄く溶かしたような、濁った茜色が町の上に垂れ込めている。


その重たい色の下で、それでも今宵、芝居は開かれた。


町は何事もない顔をして、灯りをともした。


桜は舞台に立った。


薄絹の裾がわずかに揺れ、足袋の底が板の冷たさを吸い込む。

いつもなら観客の吐息や、盃を置く音、くすくすという笑い声が混じり合うはずの客席が――

今は、息を殺したような、湿った静寂に満ちている。


誰も酔っていない。

誰も桜の肌を品定めするような目で見ていない。

あるのは、ただ怯えと、焦燥と、逃げ場を探すような視線だけだ。


桜はゆっくりと扇を開き、舞い始めた。


指先から流れ落ちるような所作。

首筋を滑る薄紅の痣が、灯りに透けて脈打つ。

それはまるで、皮膚の奥にもう一つの鼓動が隠れているかのように、鮮やかで、静かに、生きていた。


だが、その鼓動とは裏腹に、客席の空気はどこか硬く張り詰めている。


観客の目は、桜の動きを追っているはずなのに、

どこか別の場所を見ている。

舞台の奥、暗がりの袖、客席の後方――

何か、近づいてくるものを待っているように。


そして。


突然。


誰かが、座ったまま、がくりと前のめりになった。


盃が畳に落ち、酒が黒く染みを作る。

その音が、異様に大きく響いた。


続いて、低い呻き。

喉の奥から絞り出されるような、獣じみた音。


「来るぞ……」


誰かが呟いた。


声は小さかったのに、客席全体に波紋のように広がった。


「犬だ……いや、人だ……!」


次の瞬間、


暗がりから“それ”が現れた。


人の形をしている。

なのに、人の形をしていない。


皮膚は縦に裂け、肉がめくれ返り、白い脂肪が灯りに濡れて光っている。

左の眼窩は空洞で、黒く濁った血がゆっくりと溢れ、頬を伝って顎から滴り落ちる。

口は半開きになり、歯の間から血と涎が糸を引いて床に落ち、ぽたり、ぽたりと小さな音を立てる。


桜の足が、止まった。


扇を持った手が、微かに震える。


“それ”は、首をゆっくりと傾げた。

まるで、音の方向を探るように。

そして――桜の視線と、ぶつかった。


一瞬。


空気が凍る。


次の瞬間、“それ”が跳んだ。


畳を蹴る音は、湿った肉が叩きつけられるような鈍い響きだった。


「下がれ!」


家宣の声が、鋭く割って入る。


彼はすでに桜の前に立っていた。

いつ出たのか。

いつ刀を抜いたのか。

誰もその瞬間を見ていなかった。


武家の背中。

昨夜とは違う、殺気だけを纏った背中。


刀が、一閃。


闇を裂くような音。

空気が裂け、血の臭いが一気に膨張する。


左腕が、根元から落ちた。


ずるり、と湿った音を立てて畳に転がる。

指先が、まだぴくぴくと痙攣している。


だが――


“それ”は、倒れない。


胴が傾きながらも、残った右手で畳を掴み、這い進む。

切断面から、黒っぽい血がどろりと溢れ、畳に染みを作っていく。


家宣の喉が、ひくりと鳴った。


「……死なない……?」


声に、わずかな動揺が混じる。

それは、武士としてあってはならない、微かな揺らぎだった。


“それ”はさらに脚を斬られても、

両脚を失っても、

這い続ける。


爪が畳を引っ掻き、血と肉片を塗りつけながら。

歯を剥き、喉の奥から、ぐ、ぐるる……と湿った唸りが漏れる。


客席はすでに崩壊していた。


悲鳴。

逃げる足音。

転ぶ者。

踏まれる者。

灯籠が倒れ、炎が畳に這う。


吐く息が、血の味を帯びる。

空気そのものが赤黒く濁り、鉄と腐れの重さで肺を押し潰す。

昼の川辺で感じた薄い気配は、もうない。

今は、息をするたびに、喉の奥まで、逃げ場なく満ちていく。


桜は、動けない。


ただ、家宣の背中を見つめている。

その背が、わずかに震えていることに気づいてしまう。


家宣の刀が、再び振り上げられる。


けれど、その刃先は、ほんの一瞬――

迷ったように、止まった。


“それ”の濁った眼が、

家宣ではなく、

桜の方を、じっと見つめている。


まるで、

まだ、

何か、

伝えたいことがあるかのように。


そして、ゆっくりと、

裂けた口が動いた。


「……っ……っっ……」


その瞬間、首筋の痣が、理由もなく熱を帯びた。

それは“それ”に応じたのではない。

ましてや感染や屍と結びつくものでもない。

ただ、この場に満ちた死の気配が、

桜の感覚を鋭くさせただけだ。


だが、その熱が引くよりも早く――


声とも、息ともつかぬ、

粘ついた湿り気を帯びた音が、

舞台の板の上に、ぽとりと落ちた。


それは言葉にならない音だった。


けれど、その瞬間、

空気の重さが、わずかに変わった。


誰かがそれに名を与えるよりも先に、

舞台の上の何かが、確実に、ひとつ増えた。


――畳の上に落ちた影が、ひとつ多い。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

次話もお付き合いいただければ幸いです。

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