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半拍遅れの朝

※史実をもとにした創作作品です。

実在の人物・出来事とは一部異なります。

翌朝の江戸は、奇妙な静けさに包まれていた。


いつもなら夜明けとともに響き渡る威勢のいい行商の声や、石を打つ下駄の乾いた音が、確かにそこにあるのに、どこか薄い膜を一枚挟んだように遠く、鈍く、間が抜けている。

町全体が息を潜め、次の音を待ち構えているかのようだった。

その静けさは、ただの朝の穏やかさではなく、何かを隠すために意図的に張りつめられた沈黙のように思えてならなかった。


隅田川の水面は朝靄に白く霞み、昨夜揺れていた橙色の提灯の残像など微塵も残っていない。

ただ穏やかで、冷たく、何事もなかったかのように静まり返っている。

川岸に打ち上げられた花びらは湿り、色を失いかけ、踏めばぬるりと足裏に貼りつきそうなほど生々しく見えた。

濡れた土に混じって、かすかに腐臭のようなものが漂い始めている。


そして――


その風に、微かに、けれど確かに混じっていた。


鉄のような。

湿った土とは違う、鉄を含んだ生臭さ。

血の匂い。


強くはない。

だが、鼻の奥に残り続けている。

一度気づけば、もう消えることはない。

それは朝の清々しい空気の中にじわじわと染み込み、毒のように静かに、しかし確実に存在を主張していた。


桜は無意識に胸を押さえた。

昨夜、家宣の胸に預けていた頬のあたりが、急に冷たくなる。

あの時、風が運んできた「何か」の気配。

言葉にできなかったそれが、今ははっきりと輪郭を持ち、鼻腔の奥を鋭く刺している。


「……昨夜の声……」


呟いた瞬間、川面を渡る風がわずかに強まった。

波紋が広がり、遠くの舟の影をかすかに揺らす。


桜は川辺に立っている。

朝の光は淡く、まだ鋭さを持たない。

川の向こう側では、すでに人影が動きはじめている。

荷を担ぐ男の背、桶を下げた女の影、橋を渡る子どもの小さな姿。

町は確かに目覚めつつあった。


けれど桜の目は、その景色を見ているはずなのに、どこか遠くへと逸れている。

今見ているのは、この朝の光ではない。

頭から離れないのは、目覚めたときの、あの静まり返った畳の上の光景だった。


隣は、もう冷えていた。

布団のわずかな凹みだけが、そこに誰かが横たわっていた証のように残っている。

指先で触れたとき、温もりはすでに失われていた。

畳の表面に残る微かな湿り気が、夜の名残を静かに語っている。


戸の向こうで衣擦れの音がして、桜は半ば目を覚ましていた。

薄い眠りの底で、背を向ける影を見ていた。

その影はすでに身支度を整え、刀の柄に静かに手を添えながら、ゆっくりと立ち上がる。

やがて戸が開く気配がして、冷たい朝の空気がわずかに部屋へと流れ込んできた。


「確かめてくる」


小さく低い家宣の声。

それだけだった。


振り返った横顔は、昨夜自分を抱き寄せた男のそれではなかった。

異変を測る、武家の目。

鋭く、冷たく、一切の迷いがない。

その視線は、すでに何かを察知し、対処する覚悟を固めきっていた。


桜は呼び止められなかった。

喉が詰まり、言葉が出てこない。

ただ、遠ざかっていく背中を、息を殺して見つめるしかなかった。


その背が戸の向こうに消え、やがて足音も聞こえなくなった。

残された部屋は、急に広く、そして冷たく感じられた。


そして今、川の流れを前にしても、家宣の去り際の横顔が胸の奥に焼きついている。

それは優しさではなく、揺るぎのない決意だった。


朝の空気は冷えているはずなのに、

桜の胸の奥だけがじわりと熱を帯びている。

鼓動が、わずかに速い。

息を吸うたび、鉄と血の混じった拭いきれない臭いが、肺の奥深くまで入り込んでくる。


言葉にできない予感が、まだ形にならぬまま、

胸の底へとゆっくり沈んでいく。

それは恐怖よりもさらに深い、避けることのできない何かへの覚悟のようだった。


やがて陽は少しずつ高くなっていく。

川面を覆っていた白い靄はほどけ、屋根瓦の端が淡く光を帯び始める。

軒先に吊るされた布が風に揺れ、湿り気を含んだ朝の匂いが町筋へと流れていった。


行商の声は次第に数を増し、魚を売る張りのある呼び声も、野菜を担ぐ女の早口も重なり合い、通りを満たし始める。

石畳を打つ下駄の音も乾いた調子を取り戻し、桶を担ぐ水屋の足取りも軽い。

どこからか子どもの笑い声まで聞こえ、町は形の上では、いつもの朝を取り戻していった。


けれど、その賑わいの底には、何かが沈んだままだった。

表面の活気とは裏腹に、空気全体が重く澱み、夜の残滓を薄く引きずっている。


声は明るい。

だが笑いは長く続かない。

目が合えば、ほんの一瞬だけ探るような色が宿り、すぐに逸らされる。

戸口に立つ者の視線は落ち着かず、誰もが見えない何かを測りかねているようだった。


血の匂いは、もう強くはない。

それでも風の奥に溶け込み、鼻の奥に薄い刃のように留まり続けている。

時折、息を吸うたびに、その刃が軽く皮膚を削るような感覚が蘇ってくる。


町は動いている。

人は働き、荷は運ばれ、橋の上の往来も絶えない。

それでも、すべてがほんの半拍、遅れている。


川面の白は薄れ、町の屋根が光を帯びる。

ますます行商の声は増え、下駄の音は重なり合い、江戸は表面上、いつもの喧騒を再開していく。


だが、その奥にある鈍い震えだけは、消えなかった。


朝の気配がほどけるにつれ、人々の囁きは次第に輪郭を持ちはじめる。

昼を過ぎる頃には、噂は確かな形を取り始めていた。


芸妓一座の楽屋は、いつもなら笑いと香の匂いに満ちている。

だがこの日は、白粉の粉が舞う音まで聞こえそうなほど、空気が張り詰めていた。


「ねえ、聞いた? あそこの長屋で、様子のおかしい人が出たんですって」


囁きは、ひとつからふたつへ、やわらかく、しかし確実に広がる。


「犬を、生きたまま喰らったって……」

「それだけじゃないわ。斬っても、死ななかったって……」

「首を落としても、体がまだ動いていたって……」


年かさの姐さんが、いつもの調子で扇子をぱちりと鳴らした。


「まあまあ、そんな顔をしなさんな。与太話よ」


声は柔らかい。

だが、その目元だけは笑っていなかった。


町外れの辻では、すでに人垣ができているという。

中央には、簀巻きにされた“何か”が横たわっているらしい。


――と、誰もが息を呑んだ、その瞬間。


内側から、布が、わずかに波打った。


まるで、まだ息をしているかのように。


やがてその不安は、楽屋の奥にまで忍び込んできた。


桜は隅で、指先を強く握りしめている。

爪が掌に食い込み、じわりと血が滲む。


机の上には、一枚の紙。


それがいつ、誰の手によってここへ運ばれたのかは分からない。

朝、家宣が出ていったあと、気づけばそこに置かれていた。

まるで、桜に見つけられることを待っていたかのように。


その筆跡は、見間違えようもなく家宣のものだった。


乾ききらぬ墨で、短く書かれている。


「動くな。俺が確かめてくる」


それだけ。


桜は、その紙を胸元に押し当てた。

薄い紙は冷たい。

だが、その冷たさだけが、今、確かな現実だった。


外では、風がまた吹きはじめる。


それでも――


江戸の空気は、確かに変わっていた。


誰も叫んでいない。

誰も走っていない。


それなのに、すべてが遅れている。


下駄の音も、子どもの笑い声も、

どこか半拍ずれて聞こえる。


まるで町全体が、

次に何が起こるのかを、息を殺して待っているかのように。


そして、その「次」が、

すぐそこまで迫っていることを、

誰もが無意識に感じはじめていた。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

次話もお付き合いいただければ幸いです。

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