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慈悲の夜

※史実をもとにした創作作品です。

実在の人物・出来事とは一部異なります。

その夜、江戸の空は、まるで墨を溶かしたような深い青に広がっていた。


星々が遠くで瞬き、月の光が柔らかく町を包み込む。

川辺では、漁師たちの低い笑い声が水面に響き、酒盃を交わす音が心地よいリズムを刻む。

近くの芝居小屋から漏れる三味線の余韻が、夜風に運ばれて人々の心を優しく揺らす。


誰もが、今日の疲れを癒やし、明日の朝陽がまた同じように昇ることを信じて疑わなかった。

家族の団欒、友との語らい――そんな小さな幸せが、江戸の夜を温かく満たしていた。


だが、同じ空の下、川のせせらぎも、人の賑わいも届かない場所で、一人の男が静かに戦っていた。


それは江戸の外れの陋屋ではなく、賑やかな町の喧騒から遠く離れた、国の心臓部。

江戸城の奥深く、厳重な門と壁に守られた一室で、夜は重く、息苦しいほどの静寂を帯びていた。


城内は、深い闇に沈んでいた。

障子を通した月の光が、畳の目地を銀色に浮かび上がらせ、部屋の隅々まで冷たく照らす。

風は止み、庭の木々が葉ずれの音さえ立てず、遠くの虫の声もここまでは届かない。


眠りを誘うはずの穏やかな夜が、逆に心を苛立たせる。

徳川綱吉は、蒲団に横たわりながら、目を閉じることができなかった。

瞼の裏に、闇が広がるばかりで、休息は訪れない。


枕元に置かれた経典は、開かれたままのページが月の光に淡く輝いていた。

墨で丁寧に書かれた文字は、仏の教えを語り、何度も読み返したはずの言葉が並ぶ。


「命の尊さ」

「輪廻の理」


――それらは、綱吉の心に深く刻まれていたはずだった。

だが今夜は、文字がただの形としてそこにあり、魂に染み込まない。

まるで、遠い他人の言葉のように感じられる。


綱吉は、そっと息を吐いた。

胸の奥で、抑えきれないざわめきが広がる。


――また、あの夢が来るのだろうか。


生まれて間もない我が子を腕に抱いた、あの夜の記憶。

小さな指が、弱々しく動く。

息遣いが、次第に細くなり、温もりが冷えていく。


綱吉は必死に祈った。

医師を呼び、薬を求め、神仏にすがった。

だが、何も変わらなかった。

無力な自分自身が、ただそこにいた。


あの喪失の痛みは、今も胸を刺す。

罰だったのか?

それとも、天からの戒めか?


綱吉は、幼い命を失ったあの瞬間に、何度も立ち返っていた。

あれを、二度と繰り返させてはならない。

誰もが、そんな苦しみを味わう世界であってはならない。


ふと、僧の言葉が脳裏をよぎる。

穏やかな声で、静かに語られた教え。


「殺生は、巡り巡って、必ずこの世を濁します。

将軍様、命に優劣はありません。

人であれ、獣であれ、すべての血は繋がっているのです」


そうだ。

人々が無自覚に踏みにじる小さな命――犬や猫、鳥や虫さえも。

それらが積もり積もって、世の乱れを生む。


弱きものを守らなければ、この国は病む。

綱吉は、幼い日の喪失が、自分をここに導いたのだと信じていた。

あの痛みが、慈悲の源泉となった。


ゆっくりと身を起こす。

夜の闇は、静かすぎて、まるで耳を塞がれているようだ。

何事もないこの静けさの下で、どれほどの命が失われているのか。


江戸の町で、飢えた犬が追い払われ、鳥が石で落とされ、魚が無駄に捨てられる。

誰も数えない、そんな小さな死が、世を蝕む。


綱吉の心は、疼いた。

守りたい。

すべての命を、慈しみの下に。


「……このままでは、いけない」


声は、ほとんど囁きのように小さかった。

だが、その胸に宿る確信は、岩のように固い。


弱き命を守ることは、この国を守ること。

慈悲は、ただの優しさではない。

それは秩序であり、平和の基盤だ。


幼い子を失ったあの夜の無力感を、世の救済に変える。

それが、将軍としての使命。


綱吉は、経典を静かに閉じた。

指先が、紙の感触を確かめるように優しく触れる。


明日、この思いが法となる。

言葉となり、世を縛り、導く。


だが、その先に何が待つのか――

喜びか、さらなる痛みか。


この夜の綱吉は、まだ知らなかった。

ただ、胸の奥で、微かな予感が揺らぐ。

善意が、時に影を生むことを。


江戸の夜は、静かに過ぎていく。

城下の人々は、穏やかな眠りにつき、明日の朝を待つ。


綱吉は、再び蒲団に横たわる。

目を閉じ、祈るように息を整える。

この決意が、誰かを救うと信じて。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

次話もお付き合いいただければ幸いです。

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