ほどけぬ静寂
※史実をもとにした創作作品です。
実在の人物・出来事とは一部異なります。
同じ刻、隅田川の岸辺では、春の名残の桜がまだ枝にわずかに残り、散りきれなかった花びらが川面にゆっくりと漂っていた。
月は雲に隠れ、空は淡く濁っている。代わりに遠くの町屋から漏れる提灯の橙色の灯りが、水の上に細長く揺れる道を描き、時折波に歪んで消えかける。
夜風は晩春の冷え込みを帯びてひやりと湿り、桜の黒髪を撫で、薄絹の裾をそっと持ち上げては下ろした。
桜は家宣の胸に頬を預け、目を閉じている。布越しに伝わる体温は確かで、心臓の鼓動がゆっくりと響き、川の流れと重なるように静かだった。
「あなたが隣にいるなら、それだけで……いい……」
声は小さく、けれど揺らぎはなかった。
家宣は答えず、ただ桜の髪に指を通す。指先が黒髪の中を滑り、絡まり、ほどける。その仕草は優しいのに、指の力がほんのわずか強い。離すまいとするような、無意識の力がそこにあった。
川向こうでは遅い舟が櫓を軋ませ、低い音が水を伝って届く。
どこかで夜鷹がひと声鳴き、すぐに闇に溶けた。
岸辺だけが、切り取られたように静かだった。
その静寂を裂くように、遠くの路地の奥から、低く濁った声が流れてきた。
獣のようでもあり、人のようでもある。喉の奥を無理やり押し広げたような、湿った咆哮。
ひとつ響き、途切れ、間を置いてもう一度――今度はわずかに近い場所から。
家宣の腕が無意識に強まり、桜を抱く力がわずかに増す。
胸の鼓動が、ほんの少し速くなるのを、桜は頬で感じた。
「……なんだ、あの声は」
家宣が低く呟く。視線は川辺ではなく、提灯の灯りが届かない路地の闇を探っている。
桜もつられて顔を上げた。闇はただ黒いだけのはずなのに、奥行きを持って、何かを隠しているように見えた。
風が急に強く吹き、枝に残っていた花びらが一斉に舞い上がる。
淡い桃色が宙を漂い、川面へと散った。水が揺れ、橙の光が歪み、ゆらりと崩れる。
桜の胸に、理由のわからない冷たさが落ちた。
先ほどまで確かだった温もりが、一瞬、遠のくような気がした。
それでも桜はもう一度、家宣の胸に身を寄せる。
腕は確かに自分を包んでいる。体温も、変わらない。
「大丈夫……だよね……」
問いというより、祈りに近い囁きだった。
家宣は答えず、しばらく闇を見つめたまま動かない。
やがて遠くの声は止み、川の流れと櫓の音だけが戻ってきた。
ただ、夜の匂いがほんの少しだけ違っていた。
川風が頬を撫でたとき、桜は思わず息を止める。
水と泥の湿りの奥に、何か別のものが混じっている気がした。
それが何かは分からない。ただ、胸の奥がわずかにざわつく。
風はすぐに通り過ぎ、匂いも薄れていった。
桜は小さく首を振り、もう一度家宣の胸に頬を寄せた。
温もりは、たしかにそこにあった。
鼓動も、腕の重みも、変わらない。何一つ。
それでも胸の奥に落ちた小さな違和が、
心の奥で、かすかな棘のように残っていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
次話もお付き合いいただければ幸いです。




