喉を裂く夜
※史実をもとにした創作作品です。
実在の人物・出来事とは一部異なります。
数刻後。
文吉は囲炉裏の縁に座ったまま、震える指で紙包みを解いた。中から現れたのは、黒ずんだ錠剤が二粒。湿った石のような鈍い光沢を帯びている。それを乾いた喉に押し込み、井戸水で流し込むと、舌に土のような苦味が広がった――が、それもすぐに消えた。
次の瞬間、内側から溶けた蝋のような熱がじわりと広がり始める。背がわずかに反り、胸元の布の下から黒い染みがゆっくり滲み出した。
顔の皮膚が泡立ち、音もなく裂けていく。剥がれ落ちた皮は畳に張り付いたまま縮み、髪は束ごと根元から抜け落ちて黒い塊となって散らばった。頭皮の下では何かが蠢き、盛り上がり、位置を変える。爪で押さえても止まらない。
目が白く濁る。それでも、まだ見えている。理解している。ただ、止まらない。
指先が痙攣し、爪が自分の肉に食い込んで黒い血を掻き出す。喉の奥からは湿った息が絶えず漏れ、時折小さな泡が弾ける音がした。
やがて体は自分のものではなくなり、指も思うように動かなくなる。それでも、ぎこちなく――まるで糸の切れた人形のように立ち上がり、板戸を押した。
戸が、ゆっくりと開く。
外へ出ると、夜気が焼けただれた皮膚を刺し、細かな痛みが全身に広がった。路地をよろめきながら進み、膝が石畳に落ちるたびに骨が軋む音が響く。
遠くで井戸の柄杓が水をすくう音がする。どこかで三味線が細く鳴り続け、夜鷹の声だけが闇に溶けるように途切れなかった。
眠る町の底で、文吉だけが起きている。
腐りながら。
そのとき、細い路地の奥を痩せた犬が横切った。肋骨が浮き、目が虚ろに揺れている。
――喰いたい。
衝動が、内側から体を満たした。
近くの長屋の戸が、風もないのに小さく鳴る。提灯の灯りが木戸に揺れ、ぼんやりとした影を映し出した。
そこに映っていたのは、文吉の姿だった。
人の形をしている。だが、ひどく歪んでいる。背は不自然に曲がり、肩の高さは左右で違い、頭は傾きすぎている。特に口元だけが、灯りを飲み込むように黒く沈んでいた。
文吉自身は、まだ動いていない。
それでも、影だけが先に一歩踏み出す。
文吉は這うように犬へ近づき、首筋に牙を立てた。薄い皮膚が裂け、温かい血が口の中に流れ込む。鉄と腐臭と、甘ったるい何か。
噛みついた瞬間、犬の体温が急速に失せていく。まだ鼓動しているのに、冷たい。
喉が大きく鳴り、肉がずるりと滑り落ちる音がした。
血の匂いが夜気に広がり、同時に文吉の体からも甘く重い腐臭がじわりと滲み出した。
巡回中の岡っ引きが、その光景を目にする。
「……何だ」
提灯の橙色の光が、血に濡れた口元を照らし出す。
犬の喉に噛みついたまま、文吉がゆっくりと顔を上げた。裂けた頬、剥がれかけた皮膚、白く濁った目。その目だけが、白濁の奥から岡っ引きを射抜いている。
目が、合う。
岡っ引きの喉がひくりと鳴った。
「……人、か……?」
文吉の裂けた口元が、わずかに吊り上がる。
岡っ引きは一歩後ずさった。足が石畳を滑り、腰が抜けそうになる。だが、役目がそれを許さない。
「曲者ッ!」
鞘を払う音が夜を裂いた。震える腕で刀を振り下ろす。
刃は肉を裂く。骨ではない。もっと柔らかく、ぬるい感触。それでも倒れない。
もう一太刀。今度は骨に当たる手応えがあった。それでも、起き上がる。
黒い液が石畳に落ち、小さく煙を上げた。
次の瞬間、文吉が跳ぶ。
岡っ引きの喉に噛みつく。
短い悲鳴。喉笛が裂け、血が溢れ出す。
岡っ引きは文吉を突き飛ばし、よろめきながら後ずさった。
「……くそ……」
喉を押さえる指の隙間から血が滲む。呼吸が荒い。ただ、それだけだ。
やがて膝が折れ、石畳に倒れ込む。
しばらく、動かない。
提灯の火だけが静かに揺れている。
かすれた息が、破れた喉の奥で泡立つ。指先が、かすかに動く。それから、何も起きない時間が流れた。
そして――目が開く。
体が痙攣し、まず指が動き、次に首がゆっくりと起き上がる。白目を剥いたまま、口をわずかに開け、誰かを探すように歩き出した。
その歩き方は、まだ人間のものだった。
噛み裂かれた犬も、地面に伏したままだった。だがやがて脚がぴくりと動き、不自然な角度で立ち上がる。血を滴らせながら、走り出した。
路地を抜け、長屋をかすめ、次の灯りへ。
――それを止める者はいない。
この世には、生類憐れみの令がある。
犬は守られている。
それだけで、十分だった。
町は静かだ。夜はまだ深い。
遠くで鶏が時刻を違えて一度だけ鳴き、東の空はまだ何も知らない薄い色をしている。
そして朝は来る。
何事もなかったかのように。
ただ、石畳だけが、まだ温かい夜を覚えていた。その温もりは、闇の底にひそやかに残っていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
次話もお付き合いいただければ幸いです。




