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唇に残る君の温もり

※史実をもとにした創作作品です。

実在の人物・出来事とは一部異なります。

夜が深まるにつれて、空気はひんやりと重みを増し、月明かりだけが細い道を淡く照らしていた。

家宣は静かに、けれど確実に桜の長屋へと足を進めていく。

夜風が袖をすり抜けるたびに、胸の奥でずっと押し込めてきた想いが波のように揺れ、抑えきれずに疼きだす。


ふと脳裏に浮かぶのは、伏せたまつ毛が描く柔らかな影、指先に残った温かな感触、耳元でこぼれた小さな吐息――

どれもが鮮やかさを増し、歩くたびに今この瞬間に桜がそばにいるような錯覚に陥る。


長屋の前にたどり着いた瞬間、家宣は無意識に足を止めた。

深く息を吸い、ゆっくり吐き出す。

昨夜よりもはるかに強く、胸の奥で熱い何かが膨らみ、息苦しくなるほどに脈打っている。


――今宵は、昨夜よりも……。


言葉には出さない。

ただ心の奥底で、何度もその続きを反芻する。


家宣はそっと門に手をかけ、声を落とす。

呼びかける前から「桜」という名前だけが、甘く疼くように胸の中で響き続けていた。


その頃、桜は部屋の奥で、窓から差し込む青白い月光を背に座っていた。

昼のあいだ何度も胸に浮かんでは消えていった「夜の続き」を、今も両手で抱きしめるように離せずにいる。


息を整えようとしても、鼓動は言うことを聞かない。

家宣の声を思い浮かべただけで頰が熱くなり、首筋までじわりと火照りが広がる。


低く穏やかで、けれどどこか逃がさない響きのある声。

真っ直ぐで、視線を外すことすら許さないような眼差し。


ふと視線を落とすと、そこには簪があった。

家宣がくれた、あの夜の証。

月光を浴びて、静かに、けれど確かに淡く輝いている。


見つめるだけで触れた記憶が蘇り、胸の奥がきゅうっと締め付けられるように甘く痛む。


外から、かすかに足音が聞こえた瞬間、桜ははっと息を呑んだ。

心臓が喉元まで跳ね上がり、慌てて身を起こす。

急いで身支度を整えながら、足が震えるのも構わず門の方へ急いだ。


扉が開いた刹那、月の光が二人の姿を優しく、しかしはっきりと浮かび上がらせた。


家宣の視線が迷いなく桜を捉える。

闇の中で、髪に挿した簪がひそやかにきらめき、その小さな光がまるで二人の秘密の合図のようだった。


「……桜殿」


低い声が夜気に溶けるように響いた瞬間、桜は小さく息を吸い、唇の端をそっと持ち上げた。


「家宣様……」


その一言だけで、夜の空気が甘く、危険なほどに張り詰める。


家宣の瞳が、桜の輪郭をゆっくりとなぞるように落ちていく。

その熱を帯びた視線に気づいた桜は、頰を染めながら、震える指先で家宣の袖の端に触れた。

ただ隣に立っているだけで、心が溶けてしまいそうなほど温かくなる。


月明かりが二人の影を長く伸ばし、あたかも世界のすべてがこの小さな空間に閉じ込められたかのようだった。


言葉を交わしながら、少しずつ、心の距離が溶け合うように近づいていく。

昨夜の余韻が、今夜の始まりに静かに流れ込み、甘く混じり合う。


風に揺れる髪、風に揺れる簪。

家宣の視線は一瞬も桜から離れず――

そして、二人の身体が、ほんのわずか、けれど確かに触れ合った。


その瞬間、胸が同時に激しく高鳴った。


桜は思わず目を伏せる。

伝わってくる温もりが肌の奥まで甘く震わせ、ぞくぞくと全身を駆け巡る。


家宣の指が、そっと桜の頰に触れた。

ひんやりとした夜気の中で、その温かさはあまりにも鮮烈で、桜の胸は抑えきれずに大きく跳ね上がった。


昨夜とは違う。

ためらいよりも、もっと深い、確かな欲がそこにあった。


家宣がゆっくりと顔を近づける。


「……桜……殿……」


名前を呼ばれた瞬間、桜は目を閉じた。


唇が、そっと重なる。


一度目は、確かめるように。柔らかく、ためらいがちに。

二度目は、もう逃がさないと決めたように、深く絡み合う。


桜の指が無意識に家宣の衣の胸元を掴む。

その小さな、けれど必死な仕草に、家宣の息がわずかに乱れた。


唇が離れた瞬間、桜の瞳は潤んで揺れ、こぼれそうな涙を必死に堪えていた。


「……家宣様」


震える声に、家宣は小さく、優しく微笑む。

そして、額をそっと寄せた。


「昨夜より……近づいてしまったな」


その言葉に、桜はこくりと頷く。

頷きながら、涙が一粒、こぼれ落ちるのをどうしても止められなかった。


夜風が二人の袖を揺らし、しばらく、何も言わずに寄り添う。


今宵の口付けが、もう後戻りできない場所まで来てしまったことを、

二人とも、痛いほどに、甘く、はっきりと感じていた。


家宣は、そっと距離を取る。

だが、その手は離れない。

指先が桜の手首にかかり、逃げ道を塞ぐように静かに留めていた。


「……今宵は、ここまでだ」


低く抑えた声は、決して拒絶ではなかった。

むしろ、それ以上進めば戻れないことを互いに理解しているからこその選択だった。


桜は一瞬だけ唇を噛み、やがて小さく頷く。

その仕草が、すでに“了承”であることを、家宣は痛いほど悟っていた。


「……でも」


桜が、ほとんど囁きのように続ける。


「もう……昨夜には、戻れませんね」


その言葉に、家宣の喉が静かに鳴る。

答えの代わりに、彼は桜の額に、もう一度だけ、唇を触れさせた。


約束の口付け。

次は、止めないという合図。


月明かりの下、二人の影は重なったまま、ゆっくりとほどけていく。

けれど、その間に生まれた熱だけは、夜が終わっても消えなかった。


今宵の口付けは、終わりではない。

――始まりだった。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

次話もお付き合いいただければ幸いです。

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