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文に宿る想い

※史実をもとにした創作作品です。

実在の人物・出来事とは一部異なります。

闇が江戸の町を優しく包み始める頃、

桜の側使いである若い女中が、家宣の屋敷に到着した。


門を叩き、控えめに声をかけると、すぐに使用人が迎えに出てきた。

女中は丁寧に頭を下げ、

「桜様よりのお手紙をお届けに参りました」


家宣は知らせを受けると、すぐに玄関先へ足を運んだ。

女中が静かに手紙を差し出すと、

家宣は両手で恭しく受け取り、わずかに指先が震えた。


「ご苦労様です。桜殿は……元気でおられますか?」


声が少し低く、抑えきれぬ優しさが滲む。

女中はふっと微笑み、

「はい、元気でおられます。お手紙に、すべてお書きになっております」


その言葉に、家宣の胸が小さく跳ねた。

女中が一礼して去っていく背を見送りながら、

家宣は手紙を懐にしまい、静かに屋敷の奥へと向かった。


奥座敷に入ると、障子の向こうから月の光が柔らかく差し込み、畳の上に淡い銀色の帯を描いていた。

部屋の中は静かで、炭火の小さな音と、遠くの虫の声だけが聞こえる。


家宣は一人、机に向かい、手紙をそっと開いた。


桜の筆跡が目に飛び込んでくる。

丁寧で、でもどこか震えを含んだような文字。

読み進めるうちに、息が浅くなる。


「昨日のことを思い返すたび、胸の奥が、まだ少し温かいままです」


家宣の指が、文字の上をなぞるように滑った。

「いただいた簪を、今日は髪に挿して稽古に出ました。

歩くたび、風に揺れるたび、昨日の夕暮れと、あなたの声がよみがえります」


その一文を読んだ瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。

昨日、簪を渡したときの桜の表情が、鮮やかに蘇る。

驚きと喜びと、ほんの少しの涙が混じった、あの瞳。

家宣は無意識に、手紙を胸に押し当てた。


「……桜」


小さく、声に出して呼んでしまう。

自分の声が部屋に響いて、急に恥ずかしくなって、

慌てて口を押さえた。


窓辺に視線を移すと、冴え渡った月が静かに浮かんでいる。

その光を見ていると、桜の横顔が浮かぶ。

茶屋で菓子を分け合ったときの、控えめな笑み。

見世物小屋で袖を掴んで笑った、無邪気な横顔。

すべてが、月の光に照らされて、胸の中で輝いている。


庭から聞こえる虫の声が、耳に優しく響く。

その音に、桜の笑い声が重なるようで、

家宣は思わず目を閉じた。


今、桜は何をしているのだろう。

長屋の小さな部屋で、簪を枕元に置いて眠っているのか。

それとも、同じ月を見上げて、自分と同じように胸を疼かせているのか。


想像しただけで、胸がざわつく。

甘くて、苦しくて、たまらない。

こんな気持ち、初めてだ。


家宣は手紙を握りしめたまま、深く息を吐いた。

指先が震え、手紙の端がわずかにくしゃっと曲がる。


これが、恋というものなのだろうか。


静かな夜の闇の中で、

桜への想いが、ますます深く、熱く、胸を満たしていく。

もう、他の何も考えられない。

ただ、桜のことだけが、心のすべてを占めていた。


家宣はそっと目を閉じ、

手紙を胸に当てたまま、

長い間、動かずにいた。


月の光が、静かに二人の想いを繋いでいるようだった。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

次話もお付き合いいただければ幸いです。

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