芽生えの名残
※史実をもとにした創作作品です。
実在の人物・出来事とは一部異なります。
桜は簪を両手に包むようにして、いつまでも眺めていた。
淡い桜色。
灯りの揺らめきに照らされて、花弁の縁がほのかに金色に光る。
まるで、今日の夕暮れの空と、家宣の吐息がそのまま閉じ込められたみたいだ。
胸の奥がじんわりと温かくなる。
何もしていないのに、口元が自然と緩み、
指先でそっと花弁をなぞると、
今日の家宣の低い声が、耳の奥でふわりと蘇り、体が小さく震えた。
「……そんなに嬉しいことでもあったのかい?」
不意に背後から優しい声がして、桜ははっと顔を上げた。
そこに立っていたのは、右治衛の妻だった。
桜は一瞬、どう答えるべきか迷った。
けれどすぐに頬が緩み、視線が簪に戻る。
「……はい」
小さく、けれどはっきりとした声だった。
その声が少し震えていることに、自分でも気づいてしまった。
右治衛の妻は、何も言わずに桜の隣へ腰を下ろす。
促されるように、桜は今日の出来事を話し始めた。
町を並んで歩いたこと。
見世物小屋で、肩が触れ合った一瞬。
茶屋で、菓子を分け合いながら交わした短い言葉。
そして、夕暮れの風の中で渡された簪のこと。
話すたび、桜の声は自然と弾み、
自分でも驚くほど表情がやわらかくなっていく。
簪を指でそっと撫でながら話す姿は、
まるで宝物を抱きしめているようで、
右治衛の妻は静かに目を細めた。
「……そうかい」
右治衛の妻は、それだけ言って、そっと微笑んだ。
「いい顔をしてるよ。
……本当に、いい顔だ」
その言葉に、桜は胸の奥がきゅっと締めつけられた。
目頭が熱くなり、慌てて視線を簪に戻す。
桜は、涙がこぼれそうになるのを必死で堪えた。
「ありがとう……ございます」
小さな声で呟いた瞬間、
右治衛の妻が優しく桜の肩に手を置いた。
その温もりが、胸の奥まで染みてきて、
桜はもう何も言えなくなった。
その夜、桜は簪を枕元に置いたまま布団に入った。
灯りを落とすと、闇に慣れた目に、
行灯の残り火を受けた簪が、ほのかに浮かび上がって見えた。
それを確かめるように桜は一度だけ目を開き、
そっと手を伸ばして触れる。
冷たいはずの金属が、なぜか温かく感じられた。
指先で花弁をなぞりながら、
今日の家宣の視線を思い出す。
あの、逸らしそうになりながらも逸らさなかった視線を。
胸がぎゅっと締めつけられて、
息が浅くなる。
胸いっぱいの幸せと、
少しだけ切ない疼きを抱いたまま、
深い眠りに落ちていく。
翌朝。
桜は迷った末、簪を髪に挿した。
鏡の前で、何度も角度を変えて確かめる。
挿した瞬間、軽く揺れて、花弁が小さくきらめいた。
その揺れが、家宣の指先のように優しく感じられて、
桜は思わず息を止めた。
「……大丈夫」
自分に言い聞かせるように呟いて、そっと息を吐く。
鏡の中の自分が、いつもより少しだけ輝いて見えた。
いや、輝いているのは簪だけじゃない。
自分の目も、頬も、唇も……
全部が、ほんの少しだけ、柔らかくなっている。
稽古場へ向かう道すがら、
風が簪を軽く揺らすたび、
昨日の夕暮れの空と、家宣の低い声がよみがえる。
無意識に、指先で簪の根元に触れてしまう。
触れるたび、胸が小さく跳ねる。
稽古が始まると、すぐに視線を感じた。
「……それ、新しい?」
芸妓仲間の一人が、声を潜めて聞いてくる。
桜は一瞬、言葉に詰まり、
それから小さくうなずいた。
「……うん」
頬が熱くなる。
視線を逸らしながらも、
無意識に簪に触れてしまう。
指先が震えそうになるのを、必死で抑える。
「へえ……きれいだね」
もう一人がぽつりと言った。
その言葉に、みんながふっと微笑む。
誰もが知っている。
そして、誰もが優しく、見守ってくれている。
その柔らかい沈黙と、温かい視線が、
かえって桜の胸をくすぐった。
幸せすぎて、息が苦しい……
稽古を終えた後、桜は部屋に戻り、文机の前に座った。
家宣からの手紙を、もう一度そっと広げる。
文字をなぞるように指を滑らせると、
胸の奥に静かな熱が広がる。
指先が震えて、紙がわずかに揺れた。
筆を取る。
けれど、すぐには書けなかった。
「家宣」
そう書いて、止まる。
しばらく考えてから、書き直す。
「家宣様」
それだけで、胸が少し痛んだ。
指先が震え、墨がわずかに滲む。
でもその震えが、なぜか愛おしくて、
桜は小さく息を吐いて微笑んだ。
深く息を吸い、
静かに筆を走らせた。
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家宣様
昨日のことを思い返すたび、
胸の奥が、まだ少し温かいままです。
いただいた簪を、
今日は髪に挿して稽古に出ました。
歩くたび、風に揺れるたび、
昨日の夕暮れと、あなたの声がよみがえります。
揺れるたび、あなたの指先が触れた気がして、
胸がきゅっと締めつけられます。
あなたの言葉も、
手紙も、
今もそのまま、胸にあります。
次にお会いしたとき、
どんな顔をすればよいのか、
まだわかりません。
けれど、
またお会いしたいと思っていることだけは、
確かです。
……もう、戻れません。
桜
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書き終えた手紙を丁寧に折り、
側使いの少年にそっと渡す。
「……これを、あの方へ」
少年はうなずき、
何も聞かずに手紙を懐へしまった。
桜はその背を見送りながら、
胸に手を当てる。
まだ、触れてはいない。
けれど、もう戻れない。
そんな予感だけが、
静かに、確かに、胸に芽吹いていた。
そしてその芽は、
もう、誰にも止められないほどに、
甘く、強く、育ち始めている。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
次話もお付き合いいただければ幸いです。




