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芽生えの行方

※史実をもとにした創作作品です。

実在の人物・出来事とは一部異なります。

朝の柔らかな陽光が、江戸の町屋に差し込んでいた。


家宣は、いつものように茶を啜るはずだった。

茶碗を手に、会えなかった夜の想いを文にしたためていると……

ふと筆が止まる。

胸の奥で、何かが熱く疼いた。

自分でもよくわからない。

ただ、もう一度、桜の顔が見たい。

その思いだけが、急に抑えきれなくなっていた。


理性では「突然すぎる」「迷惑かもしれない」とわかっている。

なのに、気づけば草履を履き、長屋の外へ出ていた。

足は勝手に深川の方へ向かう。


通りすがりの簪屋の前で、足が自然に止まった。

赤、青、紫……煌びやかな簪が無数に並ぶ中、

ひときわ静かに佇んでいるような、桜の花を模した小さな簪に目が留まる。

淡い桜色。

細やかな金箔が、朝の光を受けてほのかにきらめいている。


……桜に、似合いそうだ。


心臓が少し速くなる。

店の主に頼み、丁寧に包んでもらった包みを懐にしまうとき、

指先がわずかに震えていた。

はたして、喜んでくれるだろうか。

そんなことを考えただけで、胸が熱く、苦しく、甘くなる。


桜の住む長屋の前に立つと、深呼吸を一つ。

軽く咳払いをして、声を掛けた。


中から慌ただしい足音が響き、戸が開く。

桜の顔が現れた瞬間、家宣の胸が小さく跳ねた。

……来た。

本当に、来てしまった。


桜は一瞬、目を丸くした。

喜びが胸の中で弾け、同時に熱いものが頰に上る。

家宣の姿を認めた途端、嬉しさと恥ずかしさが一気に混じり合い、

つい視線を逸らしてしまった。

視線を逸らした先で、自分の赤くなった耳が見えてしまい、さらに慌てる。


「お、お待たせして申し訳ありません……」

小さな声で呟きながら、慌てて家宣を中へ招き入れる。


急いで支度を整えようとするが、手が震えて思うように動かない。

髪を結おうとして櫛が滑り落ち、慌てて拾う。

鏡の前で一度、深呼吸。

もう一度髪を整え、白粉を薄くはたく。

鏡に映る自分の顔が、いつもより赤い。

頰に手を当ててしまう。

熱い。

早く行かなければと思うのに、

同時に「こんな私を、家宣に見てほしい」という気持ちが抑えきれず、

鏡を何度も覗き込んでしまう。


ようやく外へ出た二人は、並んで町を歩き始めた。


深川の辺りをぶらぶらと。

見世物小屋の前を通りかかると、呼び込みの大きな声が響く。

「珍しい芸を見せますよ! どうぞどうぞ!」


家宣は自然に――でも少し強めに――桜の手を引いた。

人混みの中、二人は肩を寄せ合いながら中へ入る。

猿回しが軽快に回り、奇術師が次々と不思議なことをやってのける。

桜は目を輝かせて笑い、思わず家宣の袖を掴んだ。

笑った拍子に、二人の肩が触れ合い、すぐにまた離れる。

でもその一瞬、桜の胸は甘く締めつけられた。

家宣もまた、すぐそばで桜の無邪気な笑顔を間近で見て、

静かに息を吐いた。

……こんなに近くで、こんなに笑ってくれるなんて。


一息ついたところで、二人で小さな茶屋へ入った。

座敷に並んで座り、甘い菓子を注文する。

羊羹と饅頭を分け合いながら、言葉数は少ない。

「この菓子、甘くておいしいですね」

桜がぽつりと言うと、家宣は穏やかに微笑んで頷いた。

そのとき、桜の視線が家宣の手に落ちる。

箸を持つ指が、ほんの少し緊張しているのがわかった。

……私と同じくらい、緊張している?


外の喧騒が遠く感じられる。

二人だけの時間が、ゆっくりと、甘く流れていた。


再び町を歩き始めた頃、日が傾き、空が橙色に染まり始めていた。

町の灯りがぽつぽつと灯り出す。

別れの時が近づいていることを、二人はどちらともなく感じていた。


家宣は歩みを緩め、桜の横に立つ。

懐から小さな包みを取り出し、そっと差し出した。


「……これを、君に」


声が、わずかに低く震えていた。


桜は驚いて家宣を見上げる。

家宣は一瞬、目を逸らしそうになりながらも、

しっかりと桜の目を見た。

沈黙が、数呼吸。

夕暮れの風が、二人の間をそっと通り抜ける。

桜の心臓の音が、耳の中で響いている気がした。


桜は受け取り、包みを開いた。

桜の花を模した小さな簪。

自分の名前に似た、淡い桜色が灯りに照らされて柔らかく光っている。


「……ありがとうございます」

声が震えた。

目頭がじわりと熱くなる。

「大切にします」


家宣は小さく頷き、言葉少なに微笑んだ。

でもその微笑みは、いつもより少しだけ、柔らかくて、切なくて、

桜の胸を強く締めつけた。


家に戻った桜は、着物の袖を整理していると、何か小さなものが落ちた。

広げてみると、薄い和紙の手紙だった。


ーーーー


桜殿


今日、君に会えるかどうかもわからぬまま、

この文を書いている。


それでも、君の名を思い浮かべると、

胸の内が、少しだけ静かになる。


言葉を交わせば交わすほど、

言えぬことが増えていくのは、

不思議なものだ。


舞う姿も、ふと伏せた横顔も、

心に残って離れぬまま、

ただ時だけが過ぎていく。


まだ、何も約束はしていない。

だが、もし今日、

並んで町を歩くことが叶うなら、

それだけで十分だと思っていた。


……でも、足りなかった。


君の笑顔を、もっと近くで見ていたい。

君の声をもっと聞いていたい。

君のそばに、もっと長くいられたい。


その願いだけは、偽りなくここに記す。


家宣


ーーーー


桜は手紙を胸に押し当てた。

頰が熱くなり、目頭がじわりと潤む。

今日一日が、夢のように甘く、鮮やかに、

そしてあまりにも切なく胸に刻まれていく。


挿絵(By みてみん)

※本話の雰囲気をもとにしたイメージです。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

次話もお付き合いいただければ幸いです。

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