表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
28/34

芽生えの名残

※史実をもとにした創作作品です。

実在の人物・出来事とは一部異なります。

気がつくと、桜は目を覚ましていた。


視界に映るのは、いつもと変わらない天井。

薄い障子の向こうから、朝の柔らかな光が差し込み、部屋の隅に小さな影を落としている。

埃の粒子が光の中でゆっくりと舞い、静かな朝の空気を優しくかき混ぜていた。


桜はしばらく瞬きをし、天井の木目の模様をなぞるように眺めてから、静かに息を吐く。

布団の温もりがまだ体に残り、昨夜の夢の余韻がふわりと胸を撫でた。

あの家宣の視線が、夢の中で微笑んでいた気がする。


頰が少し熱くなり、桜は慌てて顔を布団に埋めた。

あの優しい瞳の記憶が、朝から心をくすぐるように甘い。

布団の中で小さく丸まって、そっと自分の頰に触れる。


……こんなに熱いのは、夢のせいだけではないのかもしれない。


今日は何を着ようか。


櫛箱の隣に畳まれた薄紅の着物が、朝の光にやさしく輝いている。

いつもより少し丁寧に髪を結い、軽く白粉をはたく。


鏡に映る自分の顔は、二十五歳の柔らかさを持ちながら、どこか落ち着いていた。

首筋で、痣の桜模様が静かに息づいている。


ふと、手が止まった。


――あの家宣なら、この着物を見て、何と言うだろう。


似合ってる、と静かに目を細めてくれるだろうか。

それとも、言葉にならないまま、ただじっと見つめてくるだろうか。

想像しただけで胸がきゅんと鳴り、頰が赤らむ。

鏡の中の自分が、少し照れたように微笑んでいるように見えた。


何を口にし、どんな一日になるのだろう。

そんなことを考えられる朝が、少しだけ不思議に思える。

外から聞こえる鳥のさえずりが、今日の始まりを優しく告げていた。


着物を整え、長屋を出ると、朝の冷たい空気が頬を撫でた。

薄紅の袖が軽く揺れるたび、心もどこか浮ついてしまう。


一座の稽古場へ向かう道中、江戸の町はいつもの賑わいを見せている。

魚河岸の呼び声が響き、路地では子どもたちが笑いながら駆け回る。


桜の足音が石畳に軽く響き、風が袖をやさしく揺らした。

疲れを知らないわけではないのに、この足音が心地よい。


ふと、昨夜の石段での触れ合いを思い出す。

ほんのわずかに触れた指先の感触が、今もまだ残っているようで、胸が小さく高鳴った。


稽古の始め、扇の動きは自然に流れた。

右治衛の声が、「いいぞ」と小さく響く。


だが、幾度も繰り返すうちに、振りがわずかに乱れ、右治衛に手を止められる。


少しだけ肩を落としたそのとき、仲間の一人がそっと近づいてきた。


「桜さん、いつもより輝いてるよ。なんか、いいことあった?」


囁くような声に、頰が熱くなる。

「輝いてる」と言われて、なぜか家宣の顔が浮かんだ。

私がこんな気持ちでいること、彼は気づいているのだろうか。

家宣の存在が、こんな小さな瞬間にまで、やさしい光を落としている気がして、胸の奥で萌えるような恥ずかしさがくすぐる。


稽古が一段落し、昼近くになると、皆でぞろぞろと川辺へと移動した。

陽が高く昇り、隅田川はきらきらとまぶしく光っている。


昼の休み、川辺で弁当を広げる。

隅田川の水面が陽光を反射し、きらきらと輝いていた。


隣の老婆が、いつものように声をかけてくる。


「お嬢、今日もきれいだねぇ」


その言葉が、温かく胸に染みる。

ふと浮かぶ家宣の笑顔に、胸がゆるむ。

もし今ここに彼がいたら、このおばあさんの言葉を聞いて、どんな顔をするだろう。

少しだけ目を伏せて、口元がほんのり緩むような、そんな顔をするだろうか。

昨夜の石段で交わした短い言葉の余韻が、胸の奥でまだ静かに響いている。


萌えるような甘さが、心の奥で静かに広がる。

弁当の味が、いつもよりやさしく感じられた。


午後の稽古を終え、陽が傾き始めた頃、桜は一人、長屋への道を歩き始めた。


帰り道、北風が頰を刺す。

逃げ出したくなる夜も、確かにある。


それでも、灯りのともる長屋へ戻れば、背中に触れる温もりの記憶が、今日を大切な一日に変えてくれる気がした。

北風が頰を刺すたび、昨夜の彼の吐息の温かさが思い出されて、つい肩をすくめてしまう。


頰が熱くなり、足取りが少しだけ軽くなる。


きっと、こんな何でもない夜も、確かめるためにあるのだろう。


長屋の戸を開けると、ほのかに残る炭火の匂いが迎えてくれた。

今日という一日が、静かに終わりを迎えようとしている。


布団に横たわり、同じ天井を見上げながら、そっと目を閉じる。

明日は何をして、何を思うのだろうか。


答えは出ないまま、眠りに落ちていく。

けれど、心の奥で、何かが静かに変わり始めていた。


あの出会いが、日常の小さな喜びを、より鮮やかに色づけていく。

江戸の夜は穏やかに過ぎ、桜の心に小さな灯りをともす。


言葉にならない温かさが、胸の奥で、やわらかくほどけていく。

その萌えるような甘さが、明日へのやさしい期待を紡いでいた。


挿絵(By みてみん)

※本話の雰囲気をもとにしたイメージです。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

次話もお付き合いいただければ幸いです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ