芽生えの夜
※史実をもとにした創作作品です。
実在の人物・出来事とは一部異なります。
桜はひとり、川辺の石段に腰を下ろしていた。
月はまだ低く、水面に細い白の道を引きながら、静かに揺れている。
湿った風が薄紅の袖をやさしく持ち上げ、頰をなぞるように通り過ぎた。
遠くで三味線の音が途切れ、代わりに秋の虫たちの声が、そっと夜に溶け込んでいく。
桜は膝を抱えたまま、気づかぬうちに胸元の痣に指先を当てていた。
今日も、あの視線を探してしまった。
いないとわかっているのに、目は自然と人影を追い、
そのたびに胸の奥が、甘く、かすかに疼く。
まだ恋とは呼べない。
けれど、言葉にできない違和感が、確かにそこにあった。
川のせせらぎが耳元でやさしく囁き、
提灯の灯りが水面にぼんやりと滲む。
その静けさの中で、桜の心は穏やかで、少しだけ切なかった。
――そのとき。
砂利を踏む、控えめな足音が近づいてくる。
桜はゆっくりと顔を上げた。
月明かりの下、紺の羽織を纏った男が立っている。
家宣だった。
少し離れた場所で足を止め、何も言わずにこちらを見ている。
それだけで、張り詰めていた空気が、ふっと和らぐのがわかった。
心臓が、強く跳ねた。
家宣は静かに歩み寄り、
桜から二歩ほど距離を残したまま、石段に腰を下ろす。
夜風が二人の間を抜け、川の匂いに、彼のほのかな香りが混じった。
桜は膝を抱えたまま、そっと横顔を盗み見る。
月の光が頰をやわらかく照らし、
普段は固く閉じられている気配が、今は少しだけ緩んでいるように見えた。
風が髪を揺らすたび、胸のざわめきが形を帯びていく。
あの視線が、再び心を温かくする。
「……来てくれたのですね」
囁くような声。
喉が震え、思ったよりも小さくなった。
家宣は川面を見つめたまま、ゆっくりと頷く。
「……お前のことが、頭から離れなかった」
その一言が、胸に落ちた。
熱が込み上げ、頰がじんわりと熱くなる。
呼吸が浅くなり、指先がかすかに震えた。
家宣が視線を向ける。
目が合う。
静かで、深くて、どこか優しい瞳。
桜の心が、ゆっくりと溶けていく。
「お前は……強いな」
「いえ……」
小さく首を振る。
声が震え、言葉が途切れた。
「あなたを見ると……胸が熱くなって、息が苦しくなるんです。
怖いのに、嬉しくて……どうしていいかわからなくて……」
家宣の目が、ほんのわずかに揺れた。
彼はゆっくりと手を伸ばし、
桜の袖の端に、そっと指先を触れさせる。
布越しの、わずかな温もり。
桜は息を飲んだ。
その指が離れる瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
ただ触れただけなのに、心まで撫でられた気がした。
「俺もだ」
低く、かすかに震える声。
「お前を前にすると……言葉が、足りなくなる」
視界がにじむ。
頰を伝った涙が、月明かりにきらりと光って落ちた。
家宣はそれ以上触れようとはせず、
ただ、袖から指を離す。
それでも、残された温もりが胸に残り続ける。
「……ありがとう」
かすれる声で、桜は言った。
家宣は答えず、再び川面を見つめた。
二人はしばらく、そのままでいた。
言葉はなく、
息遣いと水音と、遠くの犬の遠吠え、虫の声だけが静かに重なる。
家宣の存在が、そっと桜を包み込む。
その静けさの中で、胸の奥に、小さな芽が生まれていく。
やがて、家宣が立ち上がった。
「……また、来る」
桜は頷けなかった。
ただ、確かに芽吹いたものを、胸の奥で感じていた。
家宣は背を向け、足音を忍ばせて去っていく。
月が、二人の影を長く伸ばした。
桜は膝を抱えたまま、川面を見つめ、そっと微笑む。
指先には、まだ温もりが残っていた。
恋は、まだ芽生えたばかり。
けれど、その芽は確かに、温かく息づいている。
江戸の夜は静かに流れていく。
歪みの影が忍び寄る中でも、
ここにだけ、小さな灯りがともっていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
次話もお付き合いいただければ幸いです。




