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影に芽吹く恋

※史実をもとにした創作作品です。

実在の人物・出来事とは一部異なります。

江戸、隅田川の川辺。


夕刻の空は、茜色に染まり、

川面が溶けた金のように優しく揺れていた。


行き交う舟の櫂が水を叩く音が遠く響き、

魚を焼く煙の匂いが湿った土の香りと混じり合う。

人いきれと汗の熱気が、江戸の夜をゆっくりと息吹かせていく。


あの頃の町は、まだ穏やかだった。

生類憐れみの令の影が心を蝕み始めていたものの、

表面は変わらぬ賑わいを保っていた。


人々は、日々の重さを忘れたくて、川辺に集まる。

仮設の舞台が組まれ、粗末な板に灯明が並び、

布が張られてささやかな非日常が作られる。


「江戸一座・今宵限りの舞」


札に足を止めるのは、商人、町人、職人、奉公帰りの女たち。

誰もが、ほんのひと時、疲れた心を癒やしたくて。


太鼓が低く鳴り、笛が夜気を裂くように響く。

舞台袖から、一人の娘が歩み出る。


二十五歳へと成長を遂げた桜だった。


薄紅の衣が灯明の光を受けてほのかに輝き、

胸元から首筋にかけての桜模様の痣が、息づくように浮かび上がる。

あの印は、隠しきれぬ過去の証。

だが、今の桜は、それをただの自分の一部として受け止めていた。


舞台中央で静かに立ち止まり、目を伏せ、深く息を吸う。

――大丈夫。ここは、私の居場所。


幼い頃から、何度も自分に言い聞かせてきた言葉が、

心の奥で静かに響く。


太鼓が打たれ、舞が始まる。


足を踏み出し、扇を開く。

身体が音と一つになる。

一挙手一投足に、積み重ねてきた時間が滲み出る。


転んだ日、叱られた日、泣きながら眠った夜。

それでも舞をやめなかった理由が、すべてそこにあった。


観客のざわめきが、次第に消えていく。

人々は息を呑み、ただ見つめていた。


妖の子と囁かれた痣も、奇異の目も、

この瞬間だけは誰の口にも上らなかった。

ただ、美しい。


そんな無言の思いが、川辺に満ちていく。


桜の心は、穏やかだった。

二十五歳の今、舞は自信ではなく、

ただの呼吸のように自然。

揺れない自分を、静かに感じる。


そのときだった。

桜は、視線を感じた。


数多の目の中で、ひときわ静かで澄んだ気配を持つ視線。

人垣の向こうに、ひとりの男が立っていた。


紺の羽織を纏い、無駄のない所作で背筋を伸ばし、

微動だにせず舞を見つめている。


町人ではない。

桜は瞬時に悟った。

武家の者だ。

しかも、ただの下級ではない。


舞を続けながらも、心臓が早鐘を打つ。

視線が、吸い寄せられるように絡む。


ほんの一瞬、目が合った。

その瞬間、世界の音が遠のいた。

――この人……。


理由はわからない。

だが、胸の奥で何かが確かに揺れた。

温かく、甘い疼き。


舞が終わると、静寂が一拍置かれ、

やがて大きな拍手が沸き起こった。


桜は深く一礼し、舞台袖へ下がる。

胸の鼓動が、なかなか収まらなかった。


夜も更け、観客が散り始めた頃、

衣を整えていると声をかけられた。


「……今宵の舞、見事でした」。


振り向くと、あの男が少し距離を保って立っていた。


「ありがとうございます」。


自然と丁寧な口調になった。

相手の纏う空気が、それを求めていた。


「差し支えなければ、名を伺っても?」


「……桜と申します」。


男はわずかに目を細めた。

「よい名だ。花の盛りも、散り際も知っている名だ」。


胸の奥がきゅっと締め付けられる。


「……家宣いえよしと申します。

商いで江戸に滞在している者です」。


一瞬の間があった。

ほんの刹那、言葉を選ぶような沈黙。


それは名ではなく、立場を隠すための間だった。

――名を変えたところで、俺が俺であることは、何ひとつ変わらぬというのに。


だが桜は、それを気にも留めなかった。

商人――そう名乗りながらも、

言葉の選び方、声の低さ、間の取り方が武家のそれだった。


桜は、それ以上踏み込まなかった。

踏み込めば、壊れてしまう気がしたからだ。


それでも、その夜を境に、二人は再び会うようになる。

川辺で、橋の下で、花火の音が夜空を裂く下で。

名も約束も持たぬまま、ただ時だけを重ねていった。


家宣は多くを語らなかった。

身分も、素性も、過去も。

だが、桜は不思議と不安を感じなかった。


「桜」。


名を呼ばれるたび、胸の奥に温かな灯がともる。


「お前を前にすると、俺は――」。


その言葉を、桜は疑わなかった。


自分が何者であるか。

痣を持つ身であること。

一座の娘であること。


すべてを超えて、この人の前ではただの「桜」でいられる。

それが、何よりも甘く、恐ろしかった。


――その頃、江戸の町では、

慈悲という名の歪みが静かに、確実に人の心を蝕み始めていたことを、

桜はまだ知らなかった。


出会いの翌日も、その翌日も、

江戸は何事もなかったかのように朝を迎えた。


桜はいつも通りに白粉を引き、髪を結い、舞台へ上がった。

客の笑い声、銭の音、拍子木の乾いた響き。

すべてが昨日までと同じだった。


ただひとつだけ、違っていた。

舞っている最中、桜はふと視線を感じる。

客席の奥、人波の向こう。


そこで、あの男はいない。

いないとわかっているのに、探してしまう。


己の愚かさに、桜は苦く微笑んだ。


夜。川辺を歩いても、人の気配は多く、

月は雲に隠れている。


逢う理由も、名乗る資格も、まだ何ひとつ持たない。

だから、声をかけることもなく、待つこともしない。


それが正しいと、桜は思っていた。


男の方も同じだった。

市井を歩き、人の声を聞き、舞台の噂を耳にしても、

桜の名だけは心の奥で触れてはならぬもののように避けていた。


武家であること。

役目を帯びていること。

この江戸が今、どれほど危うい場所か。


それらすべてが、あの女から距離を取れと告げていた。


それでも、夕暮れの橋の上でふと足を止める。

薄紅の布が風に揺れる幻を見る。


――あれは、夢だ。


そう言い聞かせて、男は歩き出した。


三日。四日。五日。

何も起きない。

誰も倒れず、誰も死なず、誰もそれを恋とは呼ばなかった。


その静けさが、かえって不気味だった。

まるで、まだ名もつかぬ嵐が息を潜めている水面のように。


そして、六日目の夜。

桜は舞台を降りたあと、なぜか一人で川辺へ向かった。


理由はない。

ただ、行かねばならぬ気がした。


その背に、月が昇り始めていた。

川のせせらぎが優しく響き、

遠くの灯りが水面に映る。


あの静かな夜に、桜の胸は穏やかだった。

家宣の視線を思い出し、微かな温もりが広がる。


江戸の歪みが、静かに近づいていることを、

まだ知らずに。


挿絵(By みてみん)

※本話の雰囲気をもとにしたイメージです。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

次話もお付き合いいただければ幸いです。

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