揺れない桜
※史実をもとにした創作作品です。
実在の人物・出来事とは一部異なります。
二十歳の桜は、静かに舞台に立った。
江戸の秋、吉原の外れにある小さな茶屋の座敷。
障子越しに差し込む柔らかな陽光が、畳の目を淡く照らす。
客は数人。商人風の男、武家崩れの若侍、そして遠くから来た旅の僧。
誰もが、ただ静かに座っている。
拍手も、歓声も、期待に満ちたざわめきもない。
ただ、桜が舞うのを待つだけ。
桜は二十歳になった。
数えで言えば、もう大人。
幼い頃から師匠に叩き込まれた舞の型は、身体に染みついている。
袖を返す指先、足を運ぶ間合い、視線を落とす角度――
すべてが、呼吸のように自然に流れるようになった。
今日の舞は、『京鹿子娘道成寺』の一節。
鐘に化けた白拍子が、恋慕の情を舞い狂う場面。
桜は、白い着物を纏い、赤い帯をきりりと締め、
髪には小さな簪を一本だけ挿した。
華やかではない。
ただ、静かに、しかし確かな存在感を放っている。
三味線の音が、低く響き始めた。
桜は、ゆっくりと目を閉じる。
胸の奥で、何かが静かに息を吹き返す。
――もう、揺れない。
幼い頃は、毎回のように震えていた。
袖が重く、足が絡まり、視線が客の顔に絡みつくのが怖かった。
「もっと優雅に」「もっと色っぽく」
師匠の叱咤が、耳に残る。
評判は、断片的にしか届かなかった。
「桜の舞は、静かすぎる」
「まだ子どもだな」
「もう少し、色気が欲しい」
それでも、桜は舞い続けた。
毎夜、鏡の前で型を繰り返し、
指先が痛むまで袖を振った。
誰も褒めなくても、自分で自分を信じるしかなかった。
今、二十歳。
鏡に映る自分は、もうあの頃の少女ではない。
痣の残る胸元を隠すように、襟を正す。
過去の痛みは、消えない。
だが、それさえも、舞の中に溶け込んでいる。
三味線が、緩やかに高まる。
桜は、目を開けた。
袖が、風を切る。
足が、畳を滑る。
視線は、虚空を貫く。
鐘の音が、遠くで響く幻聴のように。
恋慕の情が、静かに、しかし激しく、身体を駆け巡る。
客の一人が、息を飲む。
もう一人が、目を細める。
誰も声を上げない。
ただ、静かに、見つめている。
桜の舞は、決して派手ではない。
華やかな扇を振り回すわけでも、
艶やかな笑みを浮かべるわけでもない。
ただ、型を、正確に、深く、刻むだけ。
その正確さの中に、二十年の歳月が凝縮されている。
袖が落ち、足が止まる。
最後の音が、消える。
座敷に、静寂が訪れた。
桜は、ゆっくりと頭を下げる。
誰も拍手しない。
誰も「すごい」と口にしない。
ただ、商人風の男が、静かに盃を傾け、
武家の若侍が、目を伏せて息を吐く。
僧は、穏やかに頷く。
それで十分だった。
桜は、舞台を降りる。
廊下の冷たい空気が、頰を撫でる。
胸元の痣に、手を当てる。
――痛い。
でも、もう、揺れない。
江戸の冬は、静かに深まっていた。
朝の霜が石畳を白く覆い、
息が白く凍る中、人々は肩を寄せ合いながら路地を歩く。
生類憐れみの令の影が、町の隅々にまで染み込み、
犬の鳴き声が日常の音に溶け込んでいた。
あの法がもたらした歪みが、心の奥でざわつく。
桜は、二十歳の冬を、そんな空気の中で迎えていた。
稽古場は、冷たい風が隙間から入り、
灯りがぼんやりと揺れる。
右治衛の声が、いつものように落ちる。
「間がいい。視線、もっと遠くへ」。
桜は、扇を閉じ、息を整える。
動きは洗練され、十五の頃の迷いがなくなっていた。
舞は、自分の呼吸のように自然。
観客のささやきが、耳に届く。
「あの娘の舞、魂が入ってる」
「痣が、逆に華やかだ」
評判は、断片的に広がっていたが、
桜はそれに耳を傾けすぎない。
ただ、自分の内側で、静かな確信が育つ。
もう、揺れない。
痛みも、町の変化も、受け止めて進む。
それが、二十歳の自分。
外では、秋の風が落ち葉を運び、
冬の霜が静かに降り積もる。
江戸の町は、変わらず賑やかだ。
法の影が、静かに伸びる中でも。
桜は、静かに歩き出す。
二十歳の自分を、確かに抱きしめて。
これからも、舞う。
揺らぐことなく、ただ、舞う。
それが、彼女の選んだ道だった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
次話もお付き合いいただければ幸いです。




