選ぶということ
※史実をもとにした創作作品です。
実在の人物・出来事とは一部異なります。
人は、何歳で「子ども」でいることをやめるのだろうか。
その答えを、桜はまだ言葉にできなかった。
ただ、この夜が、何かの終わりであることだけは、はっきりと感じていた。
夜風が吹き、焚き火の火の粉が舞い上がった。
赤い粒子が夜空に散り、すぐに闇に溶ける。
風が幕を揺らし、遠くで木々がざわめく。
焚き火の熱が頬を温め、煙の匂いが鼻をくすぐる。
その中で、桜は唇を噛み、しばらく何も言わなかった。
泣かなかった。
叫びもしなかった。
ただ、胸の奥に、今まで知らなかった重さが落ちてくるのを、じっと受け止めていた。
それは、悲しみとも恐れとも違っていた。
泣けば流れてしまいそうで、叫べば誰かに委ねてしまいそうで、
桜はそれを、胸の奥で抱えたまま、動かなかった。
母の声が、遠くで響いた気がした。
もう会えないはずの声。
優しくて、あたたかくて、それでも自分を置いていった声。
その響きが、胸の奥で静かに反響する。
逃げたいと思えば、逃げられたかもしれない。
子どものままでいれば、どこへ行くかも、何をするかも、誰かが代わりに決めてくれただろう。
けれど、それを選ばないことを、桜は、選んだ。
やがて、小さな声で、しかし確かに言った。
「……私は」
桜は顔を上げる。
焚き火の赤が、瞳に映り、揺れる。
涙が、一筋、頬を伝う。
すぐに乾く。
「母上のためにも……
強く、生きます」
右治衛夫妻は、言葉を返さなかった。
ただ、そっと桜を抱きしめた。
細い肩。
小さな背中。
それでも、確かに宿る命の重さ。
その夜、桜は初めて知った。
守られることと、生きることは、同じではないということを。
そして――
自分は、もう「守られるだけの子」ではないのだと。
焚き火の炎が、静かに、その決意を照らしていた。
夜は、静かだった。
――――
それからの桜は――
すぐに強くなれたわけではなかった。
朝は苦手で、
寒い日は布団から出るのがつらくて、
稽古の前には、何度も小さくため息をついた。
舞の型を間違えれば叱られ、
動きが遅れれば、列のいちばん後ろへ下げられた。
「遅い」
「またか」
「集中しなさい」
その言葉に、胸の奥がぎゅっと縮むこともあった。
七つの子どもにとって、
理由もなく叱られることは、
自分の全部を否定されたように感じる。
それでも桜は、泣いて稽古場を抜け出すことをしなかった。
泣きたくなったときは、
歯を食いしばり、
終わってから、物陰で一人、袖で涙を拭いた。
「泣くな」と言われたわけではない。
ただ、泣けば――
“また守られる側に戻ってしまう”気がしたのだ。
夜、灯りが落ちると、
桜は母のことを思い出した。
思い出すたび、胸が痛んだ。
それでも、声に出して名前を呼ぶことはしなかった。
代わりに、
小さな子の手を引き、
転んだ子の背を撫で、
泣いている子の隣に、黙って座った。
「だいじょうぶだよ」
その言葉は、誰よりも自分自身に向けたものだった。
自分を責めすぎないこと。
投げ出さないこと。
それだけを胸に、桜は舞を続けた。
そうした中で、桜の舞は、少しずつ変わっていった。
足がもつれることは減り、
扇を持つ手に、迷いがなくなる。
ある日、年上の者が、ぽつりと言った。
「……今の間、よかったな」
褒め言葉とも叱責ともつかないその一言に、
桜は、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
そんな日常が続いた。
暑い季も、寒い季も、
同じ稽古場で、同じ音を聞き、
同じ失敗を繰り返しながら。
いくつかの季が巡り、
桜が十の歳を迎える頃――
桜はもう、以前のように泣かなくなっていた。
代わりに、
倒れても立ち上がることを覚え、
間違えても、もう一度やり直すことを選ぶようになっていた。
誰かに守られて生きることと、
自分で立って生きることは、違う。
けれど、
一人で生きるわけではないということも、
桜は、少しずつ知っていった。
夜、焚き火の跡に残るぬくもりのように、
桜の中には、確かに残っているものがあった。
母がくれたもの。
手を離す代わりに、託してくれたもの。
桜はまだ小さく、
未来の形など、何一つ知らなかった。
それでも。
――生きる、という選択だけは、もう、迷わなかった。
この選択が、やがて桜を「守る側」へと変えていくことを、
彼女自身は、まだ知らない。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
次話もお付き合いいただければ幸いです。




