命を渡された夜
※史実をもとにした創作作品です。
実在の人物・出来事とは一部異なります。
右治衛の妻は、何か言いたげに唇を引き結んだまま、しばらく沈黙を守っていた。
焚き火のはぜる音が、夜の静けさの中でひときわ大きく響く。
赤く揺れる炎が、妻の横顔を照らしては影に沈め、そのたびに表情の奥が見えなくなる。
火の粉が細く舞い上がり、夜空に吸い込まれるように消えていく。
風が木々の間を抜け、葉ずれのささやきを運んでくる。
遠くで、川の水音がかすかに響き、夜の静けさをより深くしている。
言葉にしてしまえば、もう戻れない。
そう分かっているかのように、妻は一度、ゆっくりと息を整えた。
胸の奥で、何かが静かに決意を固める音がした。
そして――
静かに、語り始める。
「春さんはね……」
低く、夜気に溶けるような声だった。
声は優しく、しかしどこか震えを帯びていて、焚き火の炎のように揺れている。
「最後の瞬間まで――
お前が生きることだけを、選んだ人よ」
焚き火の赤が、妻の瞳に揺れている。
その奥に映るのは、過去の記憶か、それとも今この場にいる桜の姿か。
炎が大きくはぜ、火の粉が舞い上がる。
その光が、妻の頬を優しく照らし、涙の跡を一瞬だけ浮かび上がらせる。
「雨の夜だったわ」
ぽつり、と言葉が落ちる。
思い出すように、妻の視線が焚き火を離れ、闇の奥へと向かう。
雨の音が、耳の奥で蘇るように響く気がした。
「川が荒れて、風が吠えて……」
言葉が途切れる。
妻は、杯を握る手を少し強くする。
指先が白くなる。
桜は、息を詰めて聞いていた。
胸の奥で、何かがゆっくりと動き出す。
母の名を聞いた夜から、ずっと胸にあったものが、ようやく形を取り始めている。
「それでも、春さんは――
最後まで、迷わなかった」
その声には、悲しみよりも、揺るぎない強さがあった。
妻の瞳が、再び桜に向けられる。
その視線は、優しく、しかし確かだった。
桜は、自分でも気づかぬうちに、胸元の衣を強く握りしめていた。
指先に力がこもり、布がくしゃりと音を立てる。
それでも、ほどくことができない。
喉の奥に、何かが詰まる。
涙ではない。
涙よりも深い、名前のない感情だった。
「……母上は……」
声が震える。
喉の奥に何かが詰まり、言葉がうまく続かない。
小さな胸が、激しく上下する。
「……私は、捨てられたわけじゃ……ないの?」
その問いは、疑問というより、祈りに近かった。
焚き火の炎が、桜の瞳に映り、揺れる。
涙が、一筋、頬を伝う。
火の熱で、すぐに乾く。
右治衛は、焚き火の炎から目を逸らさぬまま、はっきりと頷いた。
「違う」
短く、揺るぎのない声だった。
その一言は、冷えた夜気を断ち切るように強く、焚き火の音さえ一瞬遠のいた気がした。
右治衛の視線が、桜にしっかりと注がれる。
「父親は、酒に呑まれた男だった」
右治衛は続ける。
声は低く、しかし確かだった。
「村の噂も、己の鬱屈も、すべて春さんにぶつけていた」
低い声が、炎の揺れに合わせて静かに落ちていく。
妻が、そっと息を吐く。
その息が、焚き火の炎をわずかに揺らす。
「だが春さんは――」
一拍、間を置く。
「お前だけを、守り抜いた」
桜は、無意識のうちに首元へと指を伸ばし、
そこに浮かぶ桜の痣を確かめるようになぞった。
その仕草を、桜自身が意識するよりも先に、
焚き火の揺れる光が、首元をかすめた。
淡い薄紅の印が、炎に照らされて、静かに浮かび上がる。
「……この印も……」
ほとんど独り言のような、小さな声。
「母上が……守ってくれた証なの?」
右治衛の妻は、その問いに、一瞬だけ唇を噛んだ。
込み上げるものを押し殺すように深く息を吸い、そして、穏やかに微笑む。
「ええ、桜」
涙をこらえた声で、はっきりと言う。
「呪いでも、怪異でもないわ」
焚き火の赤が、彼女の頬を照らす。
涙が、一筋、妻の頬を伝う。
すぐに乾く。
「あなたは――」
一瞬の間。
「春さんが、命をかけて咲かせた花よ」
その言葉は、静かに、しかし確かに、桜の胸の奥へと落ちていった。
胸の奥で、何かがゆっくりと開く。
温かなものが、じんわりと広がる。
涙が、溢れる。
桜は、声を殺して泣いた。
小さな肩が震え、息が詰まる。
右治衛の妻は、そっと桜を抱き寄せる。
桜は、抵抗せず、その胸に顔を埋めた。
妻の着物の匂い。
焚き火の煙の匂い。
母の記憶のような、温かな匂い。
桜は、まだ知らない。
この夜が、母の名を胸に刻んだ夜であり、
痣が「呪い」ではなく「命の証」となった夜であることを。
そして、この言葉が、
やがて舞うための静かな力となり、
第一話の舞台で、桜が舞うときの、
灯りの向こうにいる人々への、
無言の答えとなることを。
今は、ただ、
母の名を、胸に抱きしめて、
静かに、深く、泣いていた。
焚き火の炎が、優しく揺れる。
夜は、まだ終わらない。
だがその夜、
桜は、初めて、
「生かされた」ことを、
胸の奥で、確かに感じた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
次話もお付き合いいただければ幸いです。




