表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
19/24

見続けられること

※史実をもとにした創作作品です。

実在の人物・出来事とは一部異なります。

桜は、六つになった。


遊びの延長のように舞に触れていた日々は終わり、春から「稽古」と呼ばれる時間が始まった。

初舞台の話は、まだ試しに口にされる程度で、確かな約束ではなかった。

それでも、桜の毎日は変わった。

朝の光が稽古場の土間を照らす頃から、夜の焚き火が小さくなるまで、

桜の身体は、型と音に委ねられるようになった。


右治衛は、桜に舞を教えるとき、「うまくやれ」と言ったことがない。


型の出来を問うこともなければ、形の美しさを測ることもない。

失敗を責めることも、出来たからといって褒めることもない。


桜がどれほど不器用に身体を動かしても、どれほど拙い舞になっても、言葉での評価はなかった。


彼が口にするのは、いつも短い言葉だけ。


「立て」

「息を吸え」

「今は、止まれ」


それだけ。

それ以上の説明はない。


命令のように聞こえるが、押しつけがましさはなく、怒りも焦りも、期待さえも感じられない、平坦な声だった。

ただ、そこに「ある」事実を、静かに置くだけ。


桜はその声を聞くたび、胸の奥がざわついた。

なぜ立つのか。

なぜ今、止まらなければならないのか。

なぜ次の動きを教えてくれないのか。


考えようとした瞬間、思考が身体を追い越す。

足がもつれ、重心を失い、前のめりに倒れた。


膝から地面に崩れ落ちる。

土の感触が直に伝わり、鈍い痛みが骨の奥まで走った。

踏み外した裾に足を取られ、手から離れた扇が乾いた音を立てて転がる。

舞い上がった土の匂いが鼻を突き、息を吸うたびに喉の奥がひりついた。


立ち上がろうとしても、足に力が入らない。

震えが止まらず、力を込めるほど不安ばかりが膨らむ。

また転ぶのではないか。

また同じ失敗を繰り返すのではないか。


押し潰されそうになり、桜は思わず視線を伏せた。


そのとき、ふと視線を感じる。


顔を上げると、右治衛が、そこにいた。


叱ることも、慰めることも、言葉をかけることもない。

ただ黙って、桜を見ている。


転んだ姿も、立ち上がろうとしてよろめく姿も、扇を拾う震える指先も、すべてから目を逸らさなかった。

厳しいとも優しいとも言えない視線。

評価も期待も同情もなく、ただ「そこにいる」という事実だけが揺るぎなく伝わる。


桜は、その視線を受けながら、理由のわからない息苦しさと、同時に奇妙な安心感を覚えていた。

土の冷たさが膝に染み、息が浅くなる。

それでも、視線は離れない。

その重さが、桜を地面から引き上げる力になった。


稽古は、日を追うごとに厳しさを増していく。


失敗するたびに心が折れそうになり、泣きたい気持ちを飲み込む夜も増える。

それでも右治衛は、何も言わなかった。


ある日の稽古終わり、彼は淡々と告げる。


「お前の初舞台が決まった」


試しだとも、褒美だとも言わない。

ただ事実として、その言葉を置いただけだった。


周囲の芸妓たちは、その厳しい稽古を見ていた分、自分のことのように喜んだ。

役は小さかったが、初舞台を踏んでから、桜は公演のたびに舞台に立つようになる。


不思議なことに、舞台の上は怖くなかった。


灯りの中では、転ぶことも、間違えることも、「ここにいる」ことの一部として受け入れられているように感じられた。

ありのままの自分でいていい場所が、そこにはあった。


――見捨てないということは、見続けるということだ。


その意味を、桜はまだ知らない。


だが舞台に立つたび、灯りの向こうに人の気配を感じるたび、胸の奥で同じ感覚が静かに蘇る。


逃げ出したくなる瞬間。

身体が思うように動かなくなる夜。

誰にも見られたくないと思うほど、視線が怖くなるときでさえ、その感覚だけは消えなかった。


それでも、「ここにいていい」と思えるのは、かつて何も言わず、ただ目を逸らさずに見ていた人がいたからだ。


転んでも、立ち止まっても、うまく出来なくても、視線だけは離れなかった。

その記憶が、桜を支えていた。


桜はまだ知らない。


見続けられることが、支えになることもあり、

その先で誰かを守る力に変わることもあるということを。


今は説明できないその感覚だけが、身体の奥深くに静かに沈んでいく。


土の匂い、荒い息、

そして誰かに見続けられていたという確かな記憶と共に。


その感覚だけは消えず、確実に、桜の胸に刻まれていった。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

次話もお付き合いいただければ幸いです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ