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痣と母の記憶

※史実をもとにした創作作品です。

実在の人物・出来事とは一部異なります。

桜が、ただ身体を動かしていただけの頃のこと。


稽古のない日だった。


昼下がり、空き地で芸妓たちが手拍子を打っていた。

音は揃っていない。調子も適当だった。

拍子の間隔が少しずつずれ、笑い声が混じる。

土埃が舞い、陽の光にきらめく。


「ほら、やってみな」


そう言われて、桜はただ腕を振った。

見よう見まねで、くるりと回る。

足がもつれて、転びそうになる。

小さな体がぐらりと傾き、土に手をつく。


それでも――


「上手、上手」


誰かが笑って、拍子が増える。

間違えても、止まらない。

桜は、何が正しいのかも知らないまま身体を動かした。

失敗しても、直されない。

教えられもしない。


ただ、見られている。


できなくても、そこにいていいという視線。

その拍手の中で、桜は理由もなく笑っていた。

小さな口元が開き、歯が白く覗く。

笑い声は、まだ幼く、掠れている。

でも、その笑いは本物だった。


ーーーー


桜が、五つになったばかりの頃。

一座の芸妓たちの首元を見るのが好きだった。


白く整えられた、芸妓たちのうなじ。

衣の重なりの奥に、影ひとつ落ちない肌。

動くたび、結い上げた髪の隙間から覗くそこは、

いつも綺麗で揃っていて、桜の知る「正しい姿」のように見えた。


自分も、ああなりたい。


理由はわからない。

誰かに言われたわけでもない。

ただ、そう思った。


ふと、真似をするように、桜は自分の衣の合わせを指でなぞる。

首元を引き寄せ、同じように整えようとして――


途中で、手が止まった。


布の下にあるものを、思い出してしまったからだ。


芸妓たちの首には、何もない。

どこまでも白く、きれいなままだ。


桜は、胸の奥がちくりとするのを感じた。


どうしてだろう。

どうして、同じじゃないのだろう。


答えは、わからない。


けれどその瞬間、桜ははっきりと知ってしまった。


――自分は、少し違う。


その感覚が言葉になる前に、

桜の指は無意識に、布を強く引き寄せていた。

小さな指が、布を握りしめる。

布の感触が、冷たく、手に染みる。

胸の奥が、きゅっと締めつけられる。


ーーーー


ある日、桜は自分の衣の下にある痣を、必死に布で隠そうとしていた。


小さな指で何度も衣の端を引き寄せては、そっと覗き込み、

また慌てたように引き直す。

鏡があるわけでもない。

それでも、そこにあることを桜は確かに知っていた。


布の隙間から、かすかに覗く淡い色。

布越しに感じるたび、胸の奥がひくりと跳ねる。


「……見せないほうがいい……」


呟く声はまだ幼く、舌足らずだったが、

その音には、はっきりとした怯えが混じっていた。


誰かに教えられたわけでもない。

叱られたことがあるわけでもない。

それでも桜は、知っていた。


――これは、見せてはいけないもの。

――見られたら、何かが変わってしまうもの。


理由は、わからない。

ただ、そう思った。


衣を引く力が少し強くなる。

小さな肩が、きゅっとすぼまった。

息が浅くなり、喉が乾く。


その様子を、右治衛の妻は少し離れたところから見ている。


すぐに声をかけることも、近づくこともしない。


桜の手が落ち着くまで、ただ、そこにいる。


やがて、ゆっくりと歩み寄り、

桜の前に静かに膝をついた。


目線を合わせるために腰を落とし、

急かさぬように。逃がさぬように。


「隠したいと思うなら、それでも良い」


正すでもなく、問い詰めるでもない、穏やかな声だった。

声は低く、優しく、焚き火の音のように温かい。


「でもね……」


ほんの一拍、言葉を置く。

その間に、桜の呼吸が少し浅くなる。


「恥ずかしいものじゃない」


押しつけでも、慰めでもない。

ただ、静かにそこへ置かれた言葉。


桜は、すぐに意味を掴めず、困ったように視線を落とした。

布の下にあるものを見ないようにしていたはずなのに、

目を閉じると、そこだけがはっきり浮かび上がる。


――消えない。

洗っても、擦っても、日にちが経っても。


指先が、思わず伸びかけて、

桜は慌てて手を引っ込めた。


触れたら、何かがこぼれてしまいそうな気がした。


怖い、と思う。

でも同時に、そこに「ある」ことを確かめてしまう自分もいる。


もし、これがなかったら……

自分は、どこか別の場所に行ってしまうのだろうか。


そんな考えが浮かんで、桜は小さく首を振った。


わからないことを考えると、胸の奥がきゅっと痛む。


それでも、布の下で痣は静かにそこにあった。


逃げもせず、責めもせず、

ただ、桜と一緒にいるみたいに。


桜は、それを言葉にしようとして、やめた。

うまく言えないことは、口にすると壊れてしまいそうだったから。


足元を見る。

自分の指先を見る。


そして、また胸元の布をぎゅっと握る。


「……でも……」


小さな声が、喉の奥で止まる。


少しの沈黙。


それから――


「……母ちゃん……」


その一言で、空気が止まった。


右治衛の妻の指が、わずかに動きを止める。

呼吸が、ほんの一瞬、浅くなる。


桜は、それに気づかない。


気づかないまま、言葉の続きを探すように唇を噛んだ。


母の顔を、桜はほとんど覚えていない。

声も、呼ばれ方も思い出せない。


それでも――

抱きしめられた記憶だけは、不思議と残っていた。


夜になると、突然、思い出す。

理由もなく胸が苦しくなったとき、確かにあったはずの温もり。


強くもなく、弱くもなく、

ただ、離れないと知っている腕。


――守られていた、という感覚。


それだけが、言葉にならないまま、

桜の中に沈んで残っていた。


右治衛の妻は、何も言わなかった。


否定もしない。

肯定もしない。


ただ、そっと桜の手に触れる。


指を絡めるでもなく、引き寄せるでもなく、

そこにいると伝えるだけの距離。


「……大丈夫よ」


低く、静かな声だった。


「隠したいなら、隠していい」

「でも、忘れなくていい」


何を、とは言わなかったが、

桜はその言葉を、胸の奥にそっとしまった。


布を引く力が、ほんの少し緩む。


桜は、まだ痣を隠している。

見せる勇気は、ない。


それでも、隠しながらでも生きていていいのだと、

初めて知った。


――守られた記憶は、

――消えなくていい。


その事実が、桜の胸に小さな灯りをともした。


その夜、桜は眠りにつく前、

いつもより少しだけ深く息を吸った。


布の下の痣が、静かにそこにあった。

痛くも、熱くもなく、

ただ、桜と一緒にいる。


母の記憶のように。


桜は、目を閉じた。


焚き火の音が、遠くで小さく響く。

一座の誰かが、静かに歌を口ずさむ。

その声が、夜の闇に溶けていく。


桜は、まだ知らない。

この痣が、やがて舞うための印となり、

母の記憶が、舞いの中の静かな力になることを。


だが今、

桜は、ただ、

「ここにいていい」

という場所で、

静かに、深く、眠りについた。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

次話もお付き合いいただければ幸いです。

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