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戻る場所

※史実をもとにした創作作品です。

実在の人物・出来事とは一部異なります。

――それから、いくつかの季が巡った。


夕刻、稽古場の端で、子どもが一人、膝を擦って泣いている。


拍子木の音が止まり、誰かが舌打ちをする。


「何やってんだい」


芸者の一人が、乱れた髪を結い直しながら言った。

声は強くもなく、冷たくもなく、ただ日常の延長線上にある。


「ほら、立ちな。次は置いていくよ」


その言葉に、泣いていた子どもは鼻をすすり、慌てて立ち上がる。

土埃を払い、涙を袖で拭う。

誰も、それ以上は何も言わない。

稽古は、何事もなかったように再開された。


一座では、子どもに向けた叱責や脅しは、珍しいことではない。


芸が遅れれば、

足並みを乱せば、

場の空気を壊せば……


「次は置いていくぞ」

「ここで降りろ」


そんな言葉が、冗談とも本気ともつかぬ調子で飛ぶ。

土地を持たぬ一座にとって、“置いていく”という言葉は、躾であり、現実であり、そして事実でもあった。

荷車は待たない。

夜は待たない。

泣いている時間さえ、待たない。


――――


しかし、右治衛は、桜に「捨てるぞ」「置いていくぞ」とは、決して言わなかった。


それが、どれほど簡単で、どれほど残酷な脅しの言葉であるかを、右治衛はよく知っていたからだ。

一度、置いていかれた夜の記憶が、右治衛の胸の奥にまだ息づいている。

だからこそ、それを桜に繰り返させたくなかった。


桜が転んだときも、

芸の真似がうまくできず、場を止めてしまったときも、

夜中に泣き出し、一座の眠りを乱したときも。


叱ることはあった。

声を荒らげることもあった。

拍子木を握った手が、強く鳴ることもあった。


それでも、最後には必ず、同じ言葉を、変えずに添えた。


「なあ、桜。

ここに戻ってくれば、それでいい」


戻る場所があること。

戻っても、追い払われないこと。

それを言葉にして残す。

右治衛は、それだけは欠かさなかった。


桜は、まだ四つになったばかりの子。

言葉の意味を正確に理解していたわけではない。

けれど、

その音の形を、

その響きを、

そのあとに訪れる沈黙の安全さを、

身体で覚えていった。


失敗しても、

怒られても、

泣いてしまっても。


――戻っていい。


その感覚が、桜の足を、地につなぎ止めていた。


夜、眠りにつく前。

不意に不安が胸を締めつけたとき、桜は、無意識に焚き火のある方を見た。

人の気配が集まる方へ身を寄せた。

そこに戻れば誰かがいる。

その確信が夜を越える力になっていった。


右治衛は、それを静かに見守っていた。


桜が、何も言わずに、

それでも一人で立ち上がり、

泣き止み、

また輪の中へ戻ってくる姿を。


守るとは、抱き続けることではない。

逃げ場を残すことでもない。


――戻ってきていい、と、何度でも伝えること。


右治衛は、そう思っていた。


桜は、一度、置いていかれている。

しかし今では、夜の焚き火まで、自分の足で歩けるほどに、背も伸びていた。


転べば泣く。

だが、すぐには泣かない。

一度、唇を噛み、それから火のそばへ戻る。

泣きながらではなく、泣く前に戻ってくる。


それが、この一座で過ごした時間の、確かな重さだった。


だからこそ、「置いていかない」と言うのではなく、「戻ってこい」と言い続ける。


その言葉は、やがて桜の中で、自分自身に向けられる声になるであろう。


失敗してもいい。

怖くなってもいい。

それでも――戻ればいい。


その夜も、桜は、火のそばで眠っていた。


もう、袖を掴んではいない。

だが、夢の底で、確かに知っている。

自分には、戻る場所があるのだと。


焚き火の赤い光が、桜の小さな頬を優しく照らす。

風が幕を揺らし、遠くで馬のいななきが聞こえる。

一座の誰かが、静かに薪を足す。

ぱちりと音がして、火の粉が舞い上がる。

桜の寝息は、規則正しく、穏やかだった。


闇の向こう側に、

まだ見ぬ未来が待っていることを、

桜は、まだ知らない。


だがその夜、

桜は、初めて、

「置いていかれない」場所で、

静かに、深く、眠りについた。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

次話もお付き合いいただければ幸いです。

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