壊れゆく日常
※史実をもとにした創作作品です。
実在の人物・出来事とは一部異なります。
その日から、春の家には、夜が来るたび地獄が降りてきた。
左治衛は酒に溺れ、家に帰れば荒れ狂った。
囲炉裏の火が赤く揺れる中、酒瓶を握りしめた拳が、容赦なく飛ぶ。
春の体は、何度も土間に打ちつけられた。
頬に熱い痛みが走り、唇が切れて血の味が広がる。
それでも、春は桜を胸に抱きしめ、背中を丸めて耐えた。
「村の連中が……笑っていやがる!」
囲炉裏端で怒鳴る声が、夜ごと響いた。
酒の臭いが部屋に充満し、煙と混じって息苦しい。
左治衛の目は充血し、焦点が定まらない。
「その痣のせいで、俺まで化け物扱いだ!」
拳が春の肩を捉え、引き倒す。
桜は母の腕の中で泣き叫び、春はどれほど殴られても、その小さな体を離さなかった。
小さな手が、春の着物の端を必死に掴む。
――行かないで。
――ここにいて。
その無言の訴えが、春の胸を刺す。
「違う……この子は……」
声は、いつも掻き消された。
左治衛の怒声が、家の闇を満たす。
外では、風が木々を揺らし、冷たい空気が隙間から忍び込む。
春は、桜を抱きしめながら、静かに涙を流した。
やがて、村の空気も変わっていった。
井戸端では、囁きが交わされる。
桶の水がチャプチャプと揺れ、女たちの声が低く響く。
「首に桜の痕があるらしいよ」
「妖に違いないわ」
畑に出れば、男たちは鍬を止め、睨みつけた。
土の匂いが立ち上る中、視線が刺さる。
「その子を連れてくるな。作物に祟る」
子どもたちは石を投げて笑った。
小さな石が、春の足元に転がる。
「化け子! 化け子!」
彼らは知らない。
それが、どれほど残酷な言葉かということを。
春は頭を下げ、何も言わずに去った。
背中で泣く桜の声が、骨にまで響いた。
その声が、春の心を少しずつ削っていく。
やがて、古老が家を訪れた。
夜の闇が村を覆う頃。
囲炉裏の火が小さく揺れる中、古老は土間に腰を下ろした。
皺だらけの手が、膝の上で静かに組まれる。
「春……村のためだ」
その言葉に、春の指が強張る。
桜を胸に抱いたまま、春は視線を伏せた。
「その子を、山に棄てろ」
一瞬、春の視線が揺れた。
思わず、山の方を見てしまった。
黒くそびえる山影。
雪解けの冷たい風が、窓の隙間から入り込み、頬を撫でる。
――もし、この子がいなければ。
――もし、この痣がなければ。
胸が締めつけられ、息が止まる。
喉の奥で、何かが詰まる。
春は首を振り、自分を叱るように歯を食いしばった。
「……っ」
「この子は……何も悪くありません」
古老は冷たく言った。
声に感情はない。
ただ、村の掟を述べるだけだ。
「村を救うか、子を庇って滅ぼすか。選べ」
その言葉が、春の耳に重く響いた。
囲炉裏の火が、パチンと小さく爆ぜる。
桜が、春の胸で小さく身じろぎする。
その温もりが、春の心を刺す。
古老が去った後、春は桜を抱きしめた。
小さな体が、春の胸に寄り添う。
春は、静かに泣いた。
涙が、桜の髪に落ちる。
その夜から――
春の家には、誰も近づかなくなった。
それは、守りではなく、
切り捨ての合図だった。
村の灯りが、遠くに揺れる。
春の家だけが、闇に沈むように静かだった。
春は、まだ知らなかった。
この切り捨てが、どれほど早く、どれほど残酷に、
桜の運命を奪うことになるのかを。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
次話もお付き合いいただければ幸いです。




