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慈悲の耐え

※史実をもとにした創作作品です。

実在の人物・出来事とは一部異なります。

吠えられても、追い払えなかった。

棒を振り上げることも、石を投げることも、

口汚く罵ることさえ、許されなかった。

あの法が、すべてを縛っていた。


江戸の夜は、静かに深まり、

提灯の灯りが路地をぼんやりと照らす中、

犬の群れが闊歩する。

痩せた影が橋のたもとに伏せ、

辻で低く唸り合う。


人の足音は、いつも後ろへ退き、

息を潜める。

犬の目は、月の光に輝き、

無垢で、しかし容赦ない。


噛まれても、声を上げられなかった。

痛みを訴えれば、その理由を問われ、

「御犬様を怒らせた不始末」として、

咎が返ってくる。


だから、人々は歯を食いしばった。

傷口を布で巻き、

血の滴る感触を耐え、

家族の顔を思い浮かべて、ただ黙っていた。


夜の江戸は、犬の群れが歩いた。


路地を塞ぎ、橋の上で群れをなし、

辻で互いに唸り合う。

提灯の灯りが揺れるたび、無数の影が伸び、

人の影はいつも後ろへ退いた。


犬は守られ、人は己を守る術を失った。


ある夜、長屋の男は、帰り道で犬に囲まれた。


提灯の光が犬の牙を白く照らし、

唸り声が胸に響く。

男は、家族の待つ家を思い、

ゆっくり後ずさる。


噛みつかれた腕の痛みが、熱く広がる。

だが、叫べない。


家に帰り、妻の優しい手に傷を洗わせ、

子どもたちの寝顔を見て、

胸の奥で涙を堪える。


あの痛みが、家族の絆をより強くする。

耐えることが、生きる術だと知る。


町は崩れなかった。

焼けもしなかった。

ただ、耐え続けただけだ。


人々は、声を殺し、目を伏せ、

ただ耐えた。


朝の陽光が路地を照らす中、

老婆は井戸端で静かに語る。


「この世は、変わったねえ。

でも、生きてりゃ、何とかするさ」


その言葉に、隣の女は頷き、

胸の温かさを感じる。


耐えられた者だけが、生き延びた。


桜は、川辺で一人、夕陽を眺めながら思う。


胸元の痣が、過去の痛みを思い出させる。

舞の舞台で学んだように、

生きることは、耐え、選ぶこと。


法の影の下でも、

人々の小さな優しさが、光となる。


あの老婆の笑顔、家族の絆、

町のささやき――

それらが、希望の糸を紡ぐ。


江戸の夜は、静かに過ぎていく。


犬の影が伸び、

人々の耐え忍ぶ姿が、月明かりに浮かぶ。


慈悲の法がもたらした痛みの中で、

誰もが共感する強さを、静かに育む。


耐えしのぶことが、

いつか新しい朝を呼ぶと信じて。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

次話もお付き合いいただければ幸いです。

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