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元禄宵華火

※史実をもとにした創作作品です。

実在の人物・出来事とは一部異なります。

元禄十年、夏の夜。

江戸の大川沿いは、宵の刻を迎える前から熱気に満ちていた。

湿った風が川面を滑り、灯籠の橙色の火を揺らし、肌にねっとりと絡みつく。

両岸の屋台からは甘酒の甘く発酵した香りと、焼き団子の焦げた醤油の匂いが混じり合い、人いきれと川の生臭さが溶け込んで、息苦しいほどの夏の匂いを生んでいる。


人々は肩を寄せ合い、笑い声を上げ、足元で下駄がカツカツと鳴る。

だが、ふいに音が沈んだ。

誰からともなく息を詰め、空を見上げる。

次の瞬間、夜空に最初の火の華が咲いた。

赤と金が爆ぜ、尾を引いて砕け、跡形もなく闇に吸い込まれる。

消えると知っているからこそ、人は無意識に手を伸ばし、見つめてしまうのだ。


その喧騒の中心に、仮設の舞台があった。

板敷きの上、白布を背に立つ一人の女――桜。

薄紅の衣は湿気で肌に張り付き、灯に照らされて透けるように揺れる。

その姿だけが、夜の黒い海から切り取られたように浮かび上がり、周囲の熱気を拒むかのように静かだった。


笛の音が、細く鋭く立つ。

桜は静かに一歩を踏み出す。

動きは指先から始まり、ゆっくりと腕を広げ、袖が重く空気を切る。

誰かに教えられた型のはずなのに、どこか人の世を超えた、不思議な舞。

衣の奥で隠されたものが、揺れるたびに見えてはならぬと訴えるように震える。

桜の胸の奥が、熱く、ざわつく。


――見られてはいけない。

理由はわからない。

けれど、その感覚だけは、幼い頃から骨の髄まで染みついていた。

肌が粟立ち、背中が熱くなる。

汗が一筋、首筋を滑り落ちる。


観る者は息を詰め、言葉を失う。

美しいという言葉では足りない。

祝福されぬ美――そうとしか言いようのない、胸を締めつける違和感が、静かに心の底に沈んでいく。


花火が再び弾け、光が舞台を白く染めた。

その一瞬、桜の背に浮かび上がる“痕”を、誰かが見た気がした。

薄い布越しに、赤黒い影のようなもの。

「……今の、見えたか」

「何がだ」

「いや……気のせいか」

ざわめきは風に溶け、次の花火の爆音に呑み込まれる。

だが桜の鼓動だけが、耳元で激しく鳴り続けていた。


――見られたかもしれない。

その恐怖と、奇妙な安堵が、胸を締めつける。


桜は舞い続ける。

視線を伏せ、誰のものでもない闇の一点を見つめながら。

汗が額を伝い、唇に塩辛い味を残す。

息が浅くなり、指先が震える。

それでも、型を崩さない。


――そのときだった。


舞台の下、群衆の端。

人の流れからわずかに外れた場所に、一人の男が立っていた。

姿勢に乱れはなく、喧騒の中にありながら、そこだけ空気が冷たく澄んでいる。

身なりは控えめだが、その目だけが異様に深く、澄んでいる。

測るようでもあり、祈るようでもあり、飢えた獣のようにも見える視線。


桜は、なぜかその視線を肌で感じ取った。

顔を上げるつもりはなかった。

上げてはならないと、身体が知っていた。

それでも――。


視線が、絡みつく。

息がひとつ、遅れる。

逸らせば戻れると分かっていながら、逸らせば何かを永遠に失うと、心が先に理解していた。


花火が弾け、遅れて轟音が届く。

人々の歓声が重なり、すべてが遠ざかる中で、桜の意識には、その男の目だけが焼きついていた。

名も知らぬ相手。

声も知らぬ相手。

それでも――覚えられてしまったと、確かに感じる。


やがて桜は舞を終え、深く一礼すると、そのまま舞台袖へ下がった。

顔を伏せ、胸の奥に生じた熱と震えを押し殺す。

振り返ってはならない。

振り返れば、今夜という夜が、ただの一夜では終わらなくなる。


それでも、彼女は知っていた。

この夜が、花火のように儚く消えるものではないことを。


川面には、まだ光の残像が揺れている。

そして江戸の夏の空の下、誰にも祝福されぬ何かが、静かに芽吹き始めていた。


挿絵(By みてみん)

※本話の雰囲気をもとにしたイメージです。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

次話もお付き合いいただければ幸いです。

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