「秒」―《記憶の泥人形》
◆ 正規ルート
《秒 ― 記憶の泥人形》
― 深層変位・定着の章 ―
半ばまで開いた門の向こうで、時間は流れていなかった。
進んでいるはずの秒針が、音もなく沈黙している。
それでも空間は停滞していない。ただ、変化だけが削ぎ落とされ、結果だけが残されているようだった。
そこに立っていたのは、人の形を模した塊だった。
灰色の泥が寄り集まり、肩、腕、胸郭の名残を成している。だが表面は定まらず、わずかに揺らぎ続けている。
顔と呼べる部位には、輪郭だけが浮かび上がっていた。
目でも口でもない。誰かであった可能性だけが、そこに貼り付いている。
ヌバル。
世界から削除された存在が、記憶の深層で凝結した残滓。
近づくにつれ、空気が重くなる。
それは圧迫ではなく、密度だった。
一秒という最小単位に、無数の選択と後悔が圧縮されている感覚。
泥人形の表面に、微かな紋様が走る。
それは祠の紋章と同じ構造をしていたが、意味だけが異なっていた。
継承ではない。
保存でもない。
固定――変更不能な状態への遷移を示す印だった。
伸ばされた腕が、空間を歪ませる。
触れられていないのに、記憶の奥が反応する。
消えた仲間の声、歩き方、癖のようなものが、断片として浮かび上がり、すぐに溶ける。
理解が、言葉より先に到達する。
ヌバルは問いを投げかけていない。
選択を迫ってもいない。
ここに至った時点で、世界はすでに一度、選ばれている。
泥人形の内部で、何かが定着する音がした。
それは契約の締結ではない。
“修復の可能性”そのものが、静かに閉じられる音だった。
その瞬間、祠の外側で何かが変わった。
遠くで、まだ起きていないはずの出来事が、結果だけを先に持って現実へ滑り込んでくる。
時間の順序が、不可視の層で折り畳まれていく。
泥人形の輪郭が、わずかに安定する。
代わりに、エルドの内側で――名前を持たない空白が増えた。
失われたという実感はない。
最初から、その分だけ欠けた状態が“正しい形”として再定義された。
門が、完全に開くことはなかった。
だが閉じることもなかった。
半開のまま、次の階層への境界として固定される。
最後に、ヌバルの表面に一瞬だけ、確かな像が浮かぶ。
それは仲間だったのか、可能性だったのか、それとも未来の誰かなのか――判別できない。
ただ、その像は前を向いていた。
次の瞬間、祠の灯りが戻る。
世界は何事もなかったかのように呼吸を再開する。
秒針も、再び動き出している。
だが、もう同じ速さではない。
エルドの足元に、新たな紋章が刻まれていた。
それはこれまでのどのルートにも存在しなかった形。
“記憶を書き換えた者”ではなく、
“書き換えを定着させた者”だけが持つ印。
その印は、次の試練が選択ではなく、
“結果の回収”であることを、無言で告げていた。
◆ ヌバルは誰であったか?
――選択せよ――
「敵」ルート
― ガルラル・ハウンド ―
泥人形の輪郭が歪み、四肢が異様に引き延ばされる。
灰色の塊は人の形を捨て、獣へと収束していった。
低く唸る声。
牙の隙間から零れる泥は、かつての血の名残のようだった。
ガルラル・ハウンド。
過去に討たれ、記憶ごと消されたはずの魔獣。
しかし、その眼は“憎しみ”ではなく、理解を宿している。
敵として倒された存在が、
記憶改変によって「役割」を奪われた結果――
ヌバルとして残った。
獣は吠えない。
ただ、道を塞ぐ。
ここから先は、討伐ではなく、責任の領域だった。
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「弟」ルート
― 幻影のイアン ―
泥がほどけ、人の背丈に整う。
そこに立っていたのは、幼い頃の面影を残した少年だった。
イアン。
確かに弟の名だ。
だが声がない。足音もない。
触れようとすると、輪郭が揺らぎ、
存在が“記憶の霧”のように薄れる。
本物なのか、幻なのか。
それを判別するための手がかりが、どこにもない。
ただひとつ確かなのは――
この姿を選んだのが世界ではなく、エルド自身の深層だということ。
イアンは微笑む。
それが別れの記憶なのか、捏造なのかは、もう判断できない。
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「恋」ルート
― 泣いているエリス ―
泥人形は静かに崩れ、代わりにひとりの女性が現れる。
エリス。
かつて、確かに隣にいた存在。
彼女は泣いている。
声を殺し、理由を語らず、ただ涙を落とし続けている。
近づくほどに、空気が重くなる。
後悔でも喪失でもない、結果だけが残った感情。
何があったのかは、思い出せない。
いや――
思い出せないように、上書きされた。
エリスは顔を上げない。
その涙が止まる時、
次に消えるのは、彼女なのか、それとも――。
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「己」ルート
― もうひとりのエルド ―
泥は最後まで人の形を保った。
そこに立っていたのは、鏡写しの存在。
同じ背格好。
同じ視線。
同じ記憶の重み。
もうひとりのエルドが、こちらを見つめている。
口は動かない。
だが、心の奥に直接、声が落ちてくる。
――口を開いてはならない。
理由は語られない。
説明もない。
ただ、その警告だけが、強制力を持って響く。
ここで言葉を発した瞬間、
どちらが“本体”かが確定してしまう。
沈黙は防御であり、同時に選択だった。




