№9 《深渦の観界》
◆ №9:深渦の観界
――俯瞰が世界を壊すまで――
衡珠の脈が変わった瞬間、境界の地は静かに歪んだ。崩壊ではない。均衡が、意味を失っただけだった。足元は確かでありながら、上下の感覚が曖昧になり、遠近は同時に成立しなくなる。空と地の区別が薄れ、視界の中心に深い渦が生じた。
それは引き寄せる力を持たない。だが、立つ者の視点だけを解き放つ。肉体は留まり、認識だけが外へと滑り落ちていく。
渦の内側で、世界は俯瞰された形を取った。街は配列となり、人の営みは脈動する点へ還元される。悲嘆も歓喜も音を失い、ただ変動として並ぶ。誕生と終わり、選択と結果が同一平面に置かれ、因果は線として整理されていく。
白珠は広がりを示し、黒珠は歪みの起点を刻む。衡珠が量るのは善悪ではなく、持続の可否だった。ひとつの決断が生む波紋は数値化され、別の決断と比較される。英雄的な行為は評価を落とし、無名の調整が高い安定を示す。
視点がさらに引き上げられると、個の物語は消えた。世代、思想、恐怖、技術――それらが層となり、世界は巨大な構造体として把握される。感情は誤差として処理され、祈りはノイズへ近づく。
深渦の観界は、理解を拒まない代わりに、共感を必要としない。そこでは、救済よりも分散が選ばれ、犠牲よりも配置転換が優先される。再生の余地がある存在は、別の層へ移され、役割を終えた存在は流れに溶ける。
影が集まり、役割として配置されていく。盾、緩衝、消耗。名称に価値判断はない。ただ必要か、不要か。その二択だけが冷静に続く。
そのとき、わずかな違和が生じた。衡珠の脈が、これまでにない静けさを帯びた。白と黒の重なりが、完全に一致し始めたのだ。差異が消え、判断の揺らぎが消失する。
俯瞰が、最適解を固定し始めていた。
未来は束ではなく、一本の線へと収束していく。分岐は減り、例外は切り落とされる。世界は確かに安定へ向かう。だがその安定は、変化を拒む硬さを伴っていた。
構造として正しく、生命として脆い――その兆候が、渦の底に見え始める。
視点は戻らなかった。戻る必要が、意味を失っていた。俯瞰の位置こそが最も効率的であり、最も誤りが少ない。そう判断されてしまったのだ。
地の感触は遠のき、世界は完全に図式へ変わる。選択は発生せず、調整のみが繰り返される。未来は崩れない代わりに、生まれなくなる。
やがて、渦は境界そのものを覆い始めた。観る者と世界の境が消え、衡珠の脈動だけが残る。白でも黒でもない、無色の均衡。
そこに抵抗はなかった。必要がなかったからだ。
世界は静かに整えられ、同時に、静かに閉じられていく。
流れは止まらない。ただ、新しさを含まなくなっただけだった。
衡珠は脈を打ち続ける。完璧な調和として。
だがそれは、歩みの証明ではない。
――観測によって固定された、終わりなき現在。
ここに至って、道は分岐を失った。
これ以上、次はない。
《アナザーエンド》




