BD 《狭間の道》
◆ BD ― 《狭間の道 (リフト・エリア)》
― アナザーエンド:影を踏めなかった者 ―
灰の道が背後で閉じ、細長い黒い通路が静かに目の前へ伸びていた。霧ではない。まるで液体の闇をそのまま床に流し込んだような質感だった。エルドが一歩踏み込むと、ゆらりと黒い波紋が広がる。足音はない。代わりに、踏むたびに“自分以外の足音”が微かに返ってくる。
それは、まだ形を持たない影の反響だった。
通路の両壁には、薄い影が揺れていた。人のようで人でなく、何かの記憶のようでありながら、どこにも属さない曖昧な輪郭。触れれば消える。見つめれば濃くなる。進むほどに、影たちは“存在する準備”を始めていくようだった。
――これは、祠の影ではない。
――自分が積まなかった未来の影。
足元の黒い波紋が大きく揺れた瞬間、影が一体、壁から抜け出た。エルドの背丈に似ている。しかし顔はない。表情もない。ただ、揺らいだまま、エルドの前に立ちはだかる。
エルドは剣に手をかけた。
影もまた、同じ動きをした。
まるで「もし別の選択をしていた自分」のように。
刃がぶつかる。軽い衝撃。だが影は痛まない。斬っても、裂けても、すぐに形を戻す。攻撃を受けるたび、むしろ濃度が増し、人らしさを帯びていく。
“倒すほど強くなる”という祠の理が、ここにも流れていた。
影は無音のまま、何度もエルドに刃を向けてくる。
攻撃の癖は、どこか自分に似ていた。
躊躇、迷い、焦り。
それらを正確に模倣していた。
次第に剣が重くなる。
呼吸が浅くなる。
影は増える。
いつの間にか三体。
どれも“エルドの可能性のひとつ”だった。
焦りが血管を急がせたその瞬間、影の一体が剣を弾いた。
腕に痺れが走り、武器が黒い床に落ちる。
拾おうとした手を、別の影の足が踏む。
痛みはなかった。
だが、存在を押し返される感覚だけが鋭く突き刺さった。
影が一斉に動いた。
倒すためではない。
囲むためだった。
逃げ道はない。
壁も黒い闇に溶け、空間の境界が曖昧になっていく。
影が伸ばした手が、エルドの胸元に触れた。
その瞬間、頭の奥に誰かの声が流れ込む。
――「もし、貴様があの時……」
過去ではない。
未来でもない。
“起こらなかった可能性”だけが渦のように押し寄せた。
胸が詰まる。
視界が揺れる。
影が、ひとつずつ、エルドの内側へ沈んでいく。
痛みはないのに、重い。
体が地面に縫い付けられるような圧力だけが続いた。
やがて影は完全に消えた。
倒したわけではない。
“上書きされた”のだ。
立ち上がろうとするが、足に力が入らない。
黒い通路は揺らぎ、遠ざかっていく。
祠の視界が、エルドをここから排除しているのが分かった。
――試練としては、敗北だ。
だが、エルドは静かに息を整えた。
影に飲まれた瞬間、確かに分かったことがある。
自分はこれまで、
“進まなかった未来”をただ切り捨てて歩いてきた。
そこに、積み重ならなかった後悔や選択があったことを、
見ないままにしていた。
影は自分の弱さではない。
“選ばなかった強さ”でもあったのだ。
黒い床がひとりでに割れ、静かに落下の感覚が訪れる。
祠の奥ではなく、祠の外周でもなく、
そのさらに隙間――狭間の領域へ落ちていく。
風もない。
音もない。
ただ、静かな下降だけが続いた。
この敗北に痛みはない。
代わりに、胸の奥にひとつの“視点”が残った。
――未来は、選ばなかった数だけ広がっている。
そして、その影たちは決して敵ではない。
ただ、自分の歩幅を測るために生まれた“もうひとつの可能性”にすぎない。
落下が止まり、薄い光が差す。
祠の外縁に浮かぶ、細い灰色の足場。
そこが、エルドの“アナザーエンド”だった。
新たな宝玉は与えられない。
力も得られない。
ただ、一つの教訓だけを携えて、歩み直す。
影を踏めなかった者として――
しかし、影を理解した者として。
エルドは静かに立ち上がり、薄明の先へ歩き出した。
《アナザーエンド》




