BC 《記憶を忘却する》
◆ BCルート《記憶を忘却する》
《メモリア・アビス》の最深層に降り立ったとき、空気は完全に静止していた。赤い霧はここでは薄く、その代わりに透明に近い灰光が渦を巻き、縦穴の底へと吸い込まれていく。深層に宿る記憶は、ほとんどが断片化し、形を保たぬまま漂っていた。それらは過去の影でも未来の兆しでもなく、ただ“名もなき残滓”として流転している。
中央の湖面は黒みがかった赤色に変わり、表面は動かなかった。光の反射も揺らぎもなく、ただ深淵を象徴する静寂だけが広がる。その中心に浮かぶ円形の祭壇に、《レッド・リザーバ》は僅かな震えとともに吸い寄せられた。指先に伝わる脈動は微弱で、まるで宝玉自身が迷いを宿しているかのようだった。
忘却を選ぶという行為は、祠にとって“深い断絶の儀式”を意味する。世界の層に刻まれた痕跡を一度剥がし、行為の根拠を喪失させる行程。記憶を削るのではなく、“結びつきを解体”すること。それは痛みではない。むしろ、静かに沈んでゆく石のように自然な沈黙とともに訪れる。
宝玉が祭壇に触れた瞬間、湖面が低い波紋を呼んだ。赤い膜のような光がゆっくりと持ち上がり、エルドの胸元へ吸い寄せられる。胸奥に圧が生まれ、ひとつ、またひとつと心の輪郭を包み込んでいった。
その光が触れた記憶は崩れたわけではない。ただ、紐づけを失い、意味を奪われ、形をなくしていった。過去の情景は霧の奥へと遠ざかり、音のない薄明かりの中へ沈んでゆく。色彩を帯びていた場面は透明化し、感情は輪郭をなくし、思考に宿っていた重みは羽のように軽く漂った。
周囲の霧層が静かに揺れ、祠全体が反応を示した。忘却は創造ではなく破壊でもない。祠の意志にとってそれは、記憶の過負荷を避けるための“再編”だった。世界の負担を軽くするために選ばれた、静かで冷たい調律。
祭壇周囲の縦穴に、細長い影が複数走った。それは影獣ではなく、記憶が失われる瞬間に生じる“空白の裂け目”だった。裂け目は音もなく揺らぎ、そこから淡い白光が流れ出た。白光は周囲の赤い霧へ溶け込み、層の一部を書き換えるようにゆっくりと形を変えた。
失われた断片の代わりに生まれたのは、新しい空白だった。その空白は不安を生むものではなく、ただ静かに存在する余白として胸の内側に広がった。余白は、記憶が少し軽くなった証であり、同時に深層へ踏み込んだ者にだけ許される“再出発の余白”でもあった。
やがて湖全体が微かに沈み、黒い赤光が祭壇の周囲を包み込んだ。宝玉はその中心で静止し、先ほどまでの震えを完全に止めた。忘却の儀は終わったのだと感じられた。宝玉は今、過去へと連なる層をひとつ失った代わりに、重荷のない中空の状態となっていた。
そのとき、縦穴の最奥から風が巻き起こった。祠にしては珍しい、はっきりとした“流れ”だった。その風は重くなく、むしろ軽やかで、断絶した記憶の隙間を通るように湖面へ吹き抜けた。すると湖は赤黒い光を払い、新しい色をわずかに帯びた。淡い灰がかった赤――過去でも未来でもない、曖昧な層の色。
風が止むと、祠の壁面に刻まれた円環紋様がゆっくりと書き換わりはじめた。紋様は明滅を繰り返し、余白を含む新たな構造を組み込んだ。祠そのものが、断絶の選択を受け入れ、未来へ伸びる別の枝を作り出しているのが伝わってきた。
帰路となる通路は、赤ではなく灰赤の光を放つ細い一本だけが開かれた。その光の色は、記憶を失った空白と深層の静寂とが結びついた、冷たい中間色だった。
祭壇から宝玉を拾い上げると、温度はほとんど消えていた。脈動は静止し、完全な無音を宿している。だがその無音には、不吉さではなく、未定の未来へ向かう“視界の広さ”があった。
縦穴の中央を渡り、灰赤の通路へ進む。通路は狭いが、歩を進めるたびに霧が後方へ押し返され、前方へ新しい空間が伸びた。失った記憶は戻ることはない。それでも、その喪失によって広がった余白に、未知の景色が流れ込んでくる感覚だけは確かにあった。
出口に近づくころ、胸の内側へ小さな静寂が根付いた。それは後悔ではなく、虚無でもない。“音を失った心の中心”とも呼べる、ふしぎな軽さだった。
光の境界を越えて祠の外へ出たとき、外界の空気が深く染み込んだ。風は冷たく、音は遠く、景色はやや淡い。だが、それらはどこか新鮮だった。過去の影が薄れたことで、世界の輪郭はわずかに違って見えた。
背後の祠は静まり返っていた。深層で失われた記憶は戻らない。残ったのは、空白の中心に立つひとつの存在と、その先に広がる未知の道だけだった。
誰の記憶でもない、誰に紐づかない空白の道が、静かに待っていた。
《アナザーエンド》




