表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
エルド奇譚:迷宮の祠と真名の石  作者: VIKASH
第三の試練

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

30/32

❸ - β 《忘却の回廊を進む》

◆Iルート β「忘却の回廊を進む」


――永久迷宮

〈ストレイキャット・ラビリンス〉



 光点のうち、最も淡い輝きを放つものが、ゆらりと揺れて回廊の入口を照らしていた。そこへ一歩踏み込んだ瞬間、背後で透明の道が音もなく閉ざされる。振り返ると、道は水面のように波紋を広げ、ゆっくりと闇に溶けていった。戻るという選択は、すでに存在しなかった。


 回廊の壁は乳白色で、かすかな霧が漂っている。壁面に刻まれた線は、記憶の残滓のようにぼんやりと揺らめき、触れようとすると形を変える。人の影か、言葉の欠片か、どれも曖昧で輪郭を持たない。歩みを進めるほどに、先ほどまで鮮明だった景色が、砂のようにサラサラと崩れていく感覚があった。


 足元の床には、ほのかな光の筋が流れている。呼吸を整えるたび、その光が揺れ、胸の奥に何かが剥がれ落ちるような感覚が広がる。心に残る大切な情景や声音が、温度を失い、遠く薄く漂い始めていた。だが、その曖昧な違和感を認識するたび、前へ進みたいという理由だけはかろうじて残っている。


 そうしてしばらく歩くと、回廊はすうっ…と広がり、霧に満ちた大空間へと出た。中央に円形の池があり、鏡のように静止した水面が広がっている。池を囲むように、古い柱が円を成し、それぞれの柱の表面に淡い光が走った。しかしその光は何かの文字であるはずなのに、読もうとするたび、ふいに意味を失っていく。


 ふと、水面に視線を落とす。そこには影が映っていた。

 ……影。

 誰のものなのか、何を映しているのか、その理解が一瞬遅れた。


 胸がざわつく。

 自分の姿を映しているはずの影が、微妙に違って見えた。輪郭は揺らいでおり、肩の高さも、髪の長さも、記憶しているものと少しずつずれはじめている。

 記憶が、削れている。

 回廊の試練は、思考の純度を保つために、余分な感情や過去の記憶を剥ぎ落としていく。それは理性を研ぎ澄ます方法である反面、人の中心を支える大切な核を壊してしまう危険を孕んでいた。


 再び足を踏み出すと、回廊の形状が歪んだ。道が左右へと枝分かれし、奥へ進むたびに形を変えてゆく。天井も壁も床も、まるでひとつの生き物のように脈動し、構造を組み替えている。遠くで誰かの足音が響くように思えたが、次の瞬間には消えていた。


 やがて、壁面の霧が濃くなり、視界が白色に染まる。

 前に何があるのか見えない。

 しかし足は、進むことをやめようとしなかった。


 ふいに、とても大切なことを思い出そうとする感じが胸に走る。

 だが思考を掴むより早く、霧が記憶を飲み込んでいった。


 何を探していたのか。

 なぜ旅をしていたのか。

 そもそも、ここへ来る前にどこにいたのか。


 脳裏に霧が広がり、考えるほど言葉が遠のく。

 名前を――名前を……。


 ……何だった?


 記憶を失う痛みはなく、ただ静かに消えていく。

 まるで最初から存在しなかったかのように。


 足音だけが、回廊の奥へと消えていく。

 誰のものか分からぬ足音。

 何者かが歩いていることだけは確かだが、その誰かに心当たりはもうなかった。


 ようやく視界の先に大きな扉が現れた。

 黒い結晶が重なり合い、複雑な模様を刻んでいる。

 だが、それを見ても胸は動かない。


 なぜここに扉があるのか。

 なぜ開けるべきなのか。

 そもそも、自分はどこへ向かっているのか。


 考えようとしても、答えはどこにもない。

 ただ、扉の向こうに行くのが当たり前だと感じるだけ。


 扉は静かに開く。

 その奥には、さらに長い白い回廊が続いていた。

 終わりなど存在しない、無限の道。


 暗闇も光も、喜びも恐れも、すべて遠くなっていく。

 どこかで、ずっと前に失くした誰かの声が、かすかに呼んだ気がした。

 その響きに振り返ることすらできない。


 理由は分からない。

 ただ――名前が思い出せなかった。


 そしてもう、帰る道も分からなかった。


 こうして、一人の旅人は

 ――永久迷宮へと吸い込まれた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ