❸ - β 《忘却の回廊を進む》
◆Iルート β「忘却の回廊を進む」
――永久迷宮
〈ストレイキャット・ラビリンス〉
光点のうち、最も淡い輝きを放つものが、ゆらりと揺れて回廊の入口を照らしていた。そこへ一歩踏み込んだ瞬間、背後で透明の道が音もなく閉ざされる。振り返ると、道は水面のように波紋を広げ、ゆっくりと闇に溶けていった。戻るという選択は、すでに存在しなかった。
回廊の壁は乳白色で、かすかな霧が漂っている。壁面に刻まれた線は、記憶の残滓のようにぼんやりと揺らめき、触れようとすると形を変える。人の影か、言葉の欠片か、どれも曖昧で輪郭を持たない。歩みを進めるほどに、先ほどまで鮮明だった景色が、砂のようにサラサラと崩れていく感覚があった。
足元の床には、ほのかな光の筋が流れている。呼吸を整えるたび、その光が揺れ、胸の奥に何かが剥がれ落ちるような感覚が広がる。心に残る大切な情景や声音が、温度を失い、遠く薄く漂い始めていた。だが、その曖昧な違和感を認識するたび、前へ進みたいという理由だけはかろうじて残っている。
そうしてしばらく歩くと、回廊はすうっ…と広がり、霧に満ちた大空間へと出た。中央に円形の池があり、鏡のように静止した水面が広がっている。池を囲むように、古い柱が円を成し、それぞれの柱の表面に淡い光が走った。しかしその光は何かの文字であるはずなのに、読もうとするたび、ふいに意味を失っていく。
ふと、水面に視線を落とす。そこには影が映っていた。
……影。
誰のものなのか、何を映しているのか、その理解が一瞬遅れた。
胸がざわつく。
自分の姿を映しているはずの影が、微妙に違って見えた。輪郭は揺らいでおり、肩の高さも、髪の長さも、記憶しているものと少しずつずれはじめている。
記憶が、削れている。
回廊の試練は、思考の純度を保つために、余分な感情や過去の記憶を剥ぎ落としていく。それは理性を研ぎ澄ます方法である反面、人の中心を支える大切な核を壊してしまう危険を孕んでいた。
再び足を踏み出すと、回廊の形状が歪んだ。道が左右へと枝分かれし、奥へ進むたびに形を変えてゆく。天井も壁も床も、まるでひとつの生き物のように脈動し、構造を組み替えている。遠くで誰かの足音が響くように思えたが、次の瞬間には消えていた。
やがて、壁面の霧が濃くなり、視界が白色に染まる。
前に何があるのか見えない。
しかし足は、進むことをやめようとしなかった。
ふいに、とても大切なことを思い出そうとする感じが胸に走る。
だが思考を掴むより早く、霧が記憶を飲み込んでいった。
何を探していたのか。
なぜ旅をしていたのか。
そもそも、ここへ来る前にどこにいたのか。
脳裏に霧が広がり、考えるほど言葉が遠のく。
名前を――名前を……。
……何だった?
記憶を失う痛みはなく、ただ静かに消えていく。
まるで最初から存在しなかったかのように。
足音だけが、回廊の奥へと消えていく。
誰のものか分からぬ足音。
何者かが歩いていることだけは確かだが、その誰かに心当たりはもうなかった。
ようやく視界の先に大きな扉が現れた。
黒い結晶が重なり合い、複雑な模様を刻んでいる。
だが、それを見ても胸は動かない。
なぜここに扉があるのか。
なぜ開けるべきなのか。
そもそも、自分はどこへ向かっているのか。
考えようとしても、答えはどこにもない。
ただ、扉の向こうに行くのが当たり前だと感じるだけ。
扉は静かに開く。
その奥には、さらに長い白い回廊が続いていた。
終わりなど存在しない、無限の道。
暗闇も光も、喜びも恐れも、すべて遠くなっていく。
どこかで、ずっと前に失くした誰かの声が、かすかに呼んだ気がした。
その響きに振り返ることすらできない。
理由は分からない。
ただ――名前が思い出せなかった。
そしてもう、帰る道も分からなかった。
こうして、一人の旅人は
――永久迷宮へと吸い込まれた。




